2012年09月10日

藤元登四郎『シュルレアリスト精神分析――ボッシュ+ダリ+マグリット+エッシャー+初期荒巻義雄/論』 礒部剛喜

「たまにこういう凄いのにぶつかるもんだから、SFだけは読んどかなきゃいけないのよな」と、かつて言ったのは筒井康隆。まさに至言である。それは小説だけではく、評論にも当てはまる。
 本書『シュルレアリスト精神分析――ボッシュ+ダリ+マグリット+エッシャー+初期荒巻義雄/論』は、荒巻義雄というSF作家の内面に踏み込んだ評論である。ボッシュ、ダリ、マグリット、そしてエッシャーという近代芸術の巨匠たちの絵画を言語化するという視点から、『神聖代』『柔らかい時計』『トロピカル』『カストロバルバ』という小説を読解する意欲的な試みだ。
シュルレアリスト精神分析―ボッシュ+ダリ+マグリット+エッシャー+初期荒巻義雄/論 (-) [...
シュルレアリスト精神分析―ボッシュ+ダリ+マグリット+エッシャー+初期荒巻義雄/論 (-) [単行本] / 藤元 登四郎 (著); 中央公論事業出版 (刊)
 近代絵画というものは、ピカソを引き合いにだすまでもなく、一つの哲学を一枚の絵の中に表現するわけだから、作品に埋め込まれた情報量というものは実に大きい。絵画の言語化という作業は、その逆をやる――つまり一枚の絵画に秘められた哲学を小説に演算するわけだから、それ自体もどえらい挑戦でもある。 
 パラノアック・クリティック――サルバドール・ダリがその作品に導入した絵画的技法で、シュルレアリスムの精神病理学的な研究として、パラノイア性の精神病を患う人間の内面的妄想を方法論として取り入れるというものだが、本書は絵画に投影されたパラノアック・クリティックという技法が、荒巻の諸作品にいかに還元されているのかを、精神分析の視点から精密に検証している。
 と、ここまで書けばフロイトに起源を置く精神医学者ジャック・ラカンが創始した精神分析批評のようだが、そうではない。
 著者藤元登四郎は「精神分析は、解釈に向いているものだけを解釈できるに過ぎない。むしろ、芸術は精神分析に抵抗するのである。芸術は、芸術がなければ存在しない神秘を呼び出すのである。」というマグリットの言葉を引用し、芸術的神秘が精神分析批評を拒絶することを指摘しているからだ。
 この神秘性の解明に、藤元は明晰夢という神経心理学的理論に基づく現象を導入して見せる。スタンフォード大学の精神生理学者スティーヴン・ラバージによって発見された明晰夢とは、睡眠や夢見を維持しているとき、完全に意識下でいられる現象を指す。明晰夢はレム睡眠と覚醒の境界領域に位置する状態で、「私たちの最も深いアイデンティティ、すなわち真実の自分は誰であるかを発見する手助けとなる」というもの。
 明晰夢という状態はフィリップ・ディックの小説の冒頭部に多く描かれる不快な目覚め――忘我の境界からの帰還を想起させる。
 藤元はこの明晰夢という現象を通じて、荒巻の諸作品の解剖を試みる。
 「ダリの提唱した偉大な思想、パラノアック・クリティックを使用して、荒巻義雄は、ボッシュ、ダリ、マグリット、そしてエッシャーの作品を前にして現れた明晰夢(彼岸)の世界と接触し、幻想SFを想像したのである。これが可能になったのは、荒巻が美を理解するSF作家であったところから、時空を越えた奔放なSF的表現を駆使して、ボッシュ、ダリ、マグリット、そしてエッシャーの謎を解くことができたのであった」という結論にわれわれを導く展開は実に興味深い。
 小説から絵画に埋没された哲学を導き出すことで、美術史の専門家である荒巻義雄を描き出すわけである。
 そして絵画の言語化というテーマは、荒巻の場合、『神聖代』を始めとする<新しい波(ニューウェーヴ)>の系統に位置される作品だけでなく、神と人類との壮絶な宇宙戦争を描いた『神鳴る永遠の回帰』にも顕著に現れている。地球防衛軍統合作戦本部に出頭し、人類の守護者たる巨大コンピュータの化身であるアンドロイド、サンタ・マリアと邂逅した主人公マクドナルドは、マリアと地球防衛軍首脳陣がレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』と同じ構図で謁見していることに気づくのだ。
 人類を護ろうとするマリアは、人間性とは本来対峙すべき機械であるにもかかわらず慈愛に溢れ、まさに<女性原理>を象徴しているのだ。対しての創造主であるにもかかわらず、人類が一つの種として成長したことを認めず武力侵攻を図る神々は、まさに<男性原理>を体現していた。
 未完ではあるが、『神鳴る永遠の回帰』『火星戦線異常無し』『真白き神々の降臨』の<ビック・ウォーズ>三部作が、ジョーゼフ・キャンベルが神話学書『神の仮面』で論じた<女性原理>と<男性原理>の闘いとして描かれていることは、絵画の言語化というテーマと無関係ではないであろう。

 だが本書の試みで重要なのは、絵画の言語化というテーマだけに留まってはいないことだ。SFそれ自体にしかできないだろう普遍的なテーマへの挑戦でもある。
 「――物質界との対立において、人類は、すばらしくもなければ絶望的でもないこと、知性はこの大宇宙において、なにものでもないこと――つまり、この大宇宙とは別の系に属するものであること、それはこの物質界において、いかなる序列も、しめるべき席をあたえておらず、それは生命によって生みだされそれによってささえられながら、生命とは別のものであること、生物としての人類は、大物質宇宙の秩序の中にあって、永遠の執行猶予と、一瞬後に出現する虚無の間に常に宙吊りにされているということ――」
 小松左京の『復活の日』で、ヘルシンキ大学のユージン・スミルノフ教授が文明史のラジオ講座を通じて、人類文明の崩壊に向かって叫ぶ有名な一節である。
 人間存在における精神性と物質性の対峙と葛藤は小松の小説に一貫して見られるテーマだが、それを文学理論の視点から見直したとき何が生まれてくるだろうか?
 「…今までの文学理論というのは歴史、宗教、哲学、美学、言語学、民俗学、政治学、心理学といった、あらゆる分野から借りてきた借りものの理論が多かったわけだけど、虚構の、虚構による、虚構のための理論というのがあり得るかあり得ないか」とは、筒井康隆の『文学部唯野教授』の最後で現代の文学理論を総括する唯野教授の言葉だが、文学それ自体のための理論というものはまだ存在していないことを言っているわけだ。
 同時に重要なことは、文学理論に援用されてきたのは(言語学を除けば)人文科学、社会科学の領域に限定されてきたわけで、自然科学の範疇から担ぎ出された文学理論というものはない。小説というものを物理学や化学、生物学を根拠として論じてきたケースは極めて少数だった。
 それは人間の精神性が物理現象としては説明しきれないものという、歴史的に繰り返されてきた論争に決着が着いていないからだとも言える。
 本書は、われわれ人類にとって普遍的なこのテーマ――人間存在における精神性と物質性の対峙と葛藤――を解く一つの突破口を示唆するSF評論でと言えるのではないか。
 人間の精神性を解析するべき科学はもちろん心理学だが、心理学それ自体はこの問題を解決することは不可能である。人間の物質性に踏み込むことは心理学の領域ではないからだ。かりに(昨今は擬似科学と見なされがちだが)超心理学が実験的にその有効性を実証できるならば、心理学が人間の物質性の領域に切り込むことは可能かもしれないが、現在までのところ、理論的にも超心理学の実証性は確立されたとは言えない。
 では人間の精神性と物質性を対等に扱える分野の科学は何かと言えば、それは精神医学しかない。精神疾患の治療には、人間の精神性と物質性の双方にまたがる知識が必要とされるからだ。そして精神医学は、心理学が禁じられている領域に立ち入ることが可能だった。すなわち外科手術や投薬による精神疾患の治療である。
 精神医学とは人体物理学を前提として誕生したものだった。人体というシステムへの物理学的な理解がなくては、薬理学的治療は不可能である。近代心理学を創設したフロイトもユングも心理学者を名乗ったが、本来かれらは医学者であった。心理学はあくまでも精神を病んでいる患者を治療するための診療の手段として追求されたものであり、かれらは人体物理学を常に念頭に置いて患者を観察していたはずである。
 ただ現代の医学は、フロイトの時代のものから大きく変貌している。精神性疾患の主要な対処は投薬治療だが、二十世紀に発達した抗精神病薬は人体の生化学的な研究の成果なくしてはありえなかった。医学的治療は常に最先端の技術が要求されるために、現代科学の進捗が医学に対して直接的間接的に与える影響は少なくない。
 従って医学の進歩とともに、フロイト時代の医学に基づく精神分析批評もまた変容せざるを得ないはずで、フロイトへの回帰(見方によっては帰依)を主張したラカンは、精神分析批評を構想するに際して薬理学、人体物理学とは一線を画さざるを得なかったように思われるのは、まさにこのためではなかっただろうか?
 本書で言及された明晰夢の発見も医学的な研究の一環と考えるべきであり、明晰夢から絵画の言語化というテーマに切り込んだ本書は、これまでの精神分析批評という枠組みを超えた精神医学批評という領域を論じていると見なすほうがより自然である。
 本書は自然科学的な文芸理論への道標であり、新しい文学理論が誕生しつつあることを示唆しているのではないだろうか? 精神医学批評は、経験と知識を積んだ医学者にだけに可能な文学理論であり、小説から作者の内面を物理的に演算できる可能性を持っているからである。事実、藤元が日本SF評論賞選考委員特別賞を受けた『「高い城の男」―ウクロニーと易教』はディックの作品を精神病理学的に読解しているわけで、なんでこんなにもディックの心の中が解かるのだろうかと驚愕させられる。精神医学者で古典文学の解剖を論じた人はいるが、SFでは藤元が最初であろう。
 また精神医学批評は、SFとは何か?――という疑問を解く手がかりに通じていると言えるのかもしれない。ずいぶんと大げさな言い方だと思われるかもしれないが、SFとは何かという問いかけに対する解答は、その文学理論を解明することでもあろうからだ。
 本書は、精神医学者の視点から試みられた実験的なSF評論と言えるが、SFを愛する全ての人に読んでもらいたい一冊である。(礒部剛喜)
posted by 21世紀、SF評論 at 04:06| Comment(0) | TrackBack(0) | SF評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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