2012年10月16日

苔のある路……『魔法少女まどか☆マギカ [後編]永遠の物語』(宮野由梨香)

「100人のうち、16人が女の人。そのうちの4人が子ども」
 開場前の行列の前後を数えて姉娘が言った。
「わたしたちがいなかったら、13人が女で、子どもは2人だよ。男の子がいないなぁ。あと『おかあさん』もいない。あの子もあの子もお父さんと一緒だ」

         〇

 まどかの母親の名は「詢子」である。
 彼女は言(=ロゴス)に殉じた人である。
 ロゴスとは、理性のことでもある。彼女にはまどかを引き留めることはできない。
 その結果、彼女は娘を失う。自業自得とあえて言おう。


         〇

 これは[前篇]を見た時から気になっていたのだが、今日、[後編]を見て改めて確認した。
 DVD版の見滝原市と、映画版の見滝原市は、明らかに違う土地だ。
 その違いは、まどか達の通学路を見れば明らかである。映画版では、路に苔がある! DVD版にはない。路にはブロックタイルが敷かれていて、雑草も生えないという感じなのだ。だから、DVD版での見滝原市は、いかにも「歴史のない土地」という感じがする。
 映画版では苔があるばかりか、樹齢が数百年ありそうな樹も描かれていた。
 また、上条くんの家は、DVDでは単なる「お金持ちの家」ふうであったが、映画版では「旧家」のたたずまいを見せていた。
 こういった改変が作品にもたらす意味は大きい。作品の問題提起が単なる「新興の土地」の問題に留まらないことを示している。
 だからこそ、[後編]に新たに付け加えられた「墓場」と「歩むほむらと木々のシルエット」の持つ意味は大きいのであるし、それは[前編]のラストに付け加えられた画像とも、つながりを持つ。

         〇

 娘に「『まど☆マギ』について本を書いて」と言われて、DVD版をもとにこんなふうな構成表を書いてみたことがある。

構成 (各章10〜13枚)(全体で230枚くらい)
はじめに
目次
序(オープニング)壊れた世界
        とっくに世界は壊れている
第一章 目玉焼きとは固焼きですか? それとも半熟ですか?
        それは、食べ物に失礼です
第二章 そのテがあったか!
        社長の椅子も、単なる手段
第三章 女の子をせかす男子は嫌われるゾ
        魔法少女になるって、つまりは…
間奏曲(また、あした)近くて遠い
        言葉なんて、しょせん通じないし
第四章 生きている身体なんて邪魔なだけですわ
        血のぬめりって、汚いよね。
第五章 奇跡だよね、これ。
        ぼうやは呑気でいいよね。
第六章 ゾンビにされたようなもんじゃないか!
        生きながら死んでいる身体になるということ。
第七章 その気になれば痛みなんか完全に消しちゃえるんだ
        自分の痛みがわからない人。
第八章 捨てる時が、ホント、ウザいっすよね。
        使い捨ての論理に陥るあなたこそが、既にゾンビです。
第九章 あんまりだよ。酷すぎるよ!
         私が気がつかなかっただけで、世界って、とっくにそうだったみたい。 
間奏曲(and I’m home)ひとりきりで泣く後ろ姿
         だから、野良猫を助けてしまうの。
第十章 君の祈りはエントロピーを凌駕した!
         そう、生きるとはそういうことだから。
第十一章 お願いだから、あなたを私に守らせて!
         男に言われたら、ウザいセリフでも…
第十二章 まどかっ、まどかぁ
         まどかに「歳の離れた弟」がいる理由
結び(エンディング)命をつくるのは「願い」
あとがき


 こんな感じであった。
 今は、これよりも、もう少し踏み込めそうな気がしている。
 新たに構想をたてなおして書いてみたいと思う。
 年内には仕上げたいな。

                           (宮野由梨香)


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2012年10月11日

黒猫とエントロピー……DVD版『魔法少女まどか☆マギカ』(宮野由梨香)


 既にすっかり『まど☆マギ』館と化している宮野の家であるが、1年前はこうではなかった。出窓にフィギュアもなければ、壁にタペストリーもなかったのだ。ううう。。。
 近所の店で『魔法少女まどか☆マギカ』のDVDをレンタルしてきたところから話は始まる。
 最初に見た時は、こんな感じであった。

母「行かせねえっ! 絶対に行かせないからなぁっ!!」(と、叫んで、娘を抱きしめる)
娘「あの〜、世界が滅びますけど…」
母「いいの。世界なんかほっとけばっ」
娘「でも、友達が…」
母「友達なんか、どうでもいいのっ」
娘「でも、ほむらちゃんは何度も…」
母「私だって、あんたを3回産みなおしたんだぁっ」
  (宮野は娘を産む前に2回流産している)
娘「じたばた じたばた」
母「『ワルプルギスの夜なみにうざい魔女かも』と思っただろ?」
娘「うん」

 そして、宮野は詢子さん・知久さんを罵倒し、和子さんを非難した。なぜって、何度くりかえしてもまどかが「魔法少女」になってしまうのは、あの連中のせいでもあるもんね。
 和子さんについては既に書いたがhttp://prologuewave.com/archives/1577#extended、あの関白亭主と良妻賢母の性別を単に逆転させただけの夫婦も問題だらけだ。しかし、まあ、彼らが悪いわけでもなく、そこが「見滝原」なんだよね。そういう意味で、とても深い問題提起をしていると思った。
 そこらへんを、じっくり考えてみたくなったので、DVDをまとめて買った。

魔法少女まどか☆マギカ 1 【完全生産限定版】 [DVD] / 悠木 碧, 斎藤千和 (出演); 新房昭之 (監督)

 娘たちは、私よりも何度も何度も見ていた。その頃、娘たちの友人には『まど☆マギ』を知っている子はいなかったそうである。娘たちは熱心に「布教」に励んだらしい。(いや、単に家に遊びに来る友人たちに片端から『まど☆マギ』を見せていただけなんだけど)

 そんなある日、オープニングの最初の画像を見て、「どうして泣いているんだろう…?」
と私がつぶやいたら、姉娘が「猫が死んじゃったからだよ」と言った。
「ほら、だから、ここで、猫を抱いて笑っているでしょ? 猫を助けてもらう代わりに魔法少女になったのが一番最初のループだから、ここから始まるんだよ」
 私は驚いた。
「それ、自分で考えたの?」
「え? だって見ていれば、わかるじゃん」と姉娘(当時小6)が言った。
「うん。見ていればわかる」と妹娘(当時小4)も言った。
 そのとたん、私にもいきなりわかったのだった。つまり、そういうことだったのだということが。

             〇

 黒い猫が死んだ。
 この出来事が、『魔法少女まどか☆マギカ』という物語の発端である。
 黒猫の死によって、主人公・鹿目まどかは「疾風怒涛の時代」に足を踏み入れた。
 一輪の薔薇がすべての薔薇であるように、一匹の猫の死はすべての生命の死だ。そう、生命とは死ぬものなのだ。
 そのことに向かって、少女は泣く。肩を震わせて、しゃくりあげる。
 少女が発見したのは、「生きているものは必ず死ぬ」という条理である。
 もちろん、それまでだって知っていた。知識としてはあった。だが、目の前のひとつの死が、このようなつながりとして我が身に突き付けられてきたのは、はじめてだ(註1)。
 雨が降っている。疾風怒涛の時代の始まりを告げる雨だ。雨に濡れつつ少女は涙を流す。
 少女の落とす二滴の涙の波紋が静かに広がる。
 少女の向こう側に木々の緑が、そのまた向こうには高層建築のシルエットが浮かびあがる。少女が棲む「世界の最先端建築の粋を集めたハイテク未来都市、見滝原市」である。
 
          〇

 SF作家、アイザック・アシモフは、科学解説書の執筆の方でもすぐれた著作を多く残している。
 名著との呼び声高い『物理とはT 運動・音・熱』(註2)で、アシモフは「熱力学の法則」についても説明している。言うまでもなく、熱力学の第一法則とは「エネルギー保存の法則」のことであり、第二法則とは「エントロピーの法則」のことである。
 アシモフは、この法則についてまずひととおり説明してから、次のように書いた。

 宇宙ということばを使えば、熱力学の法則はつぎのように最も一般的に述べることができる。つまり第一法則は、宇宙の全エネルギーは一定であるということができ、第二法則は、宇宙の全エントロピーは増加し続けているということができる。(三一六ページ)


 そして、このページの説明には、次のような脚注が施してある。

 たとえていうと、第一法則では君は勝つことができない≠ニ述べており、第二法則は君は引き分けにすることもできない≠ニ述べているといえる。(三一六ページ)


 このアシモフのたとえを、生命と死との戦いにあてはめて、言いなおしてみよう。

 生命は死に勝つことができない。また、引き分けにすることもできない。


 このようになる。
 生きるというのは「勝つことも引き分けにすることもできない」戦いを続けることだ。
 インキュベーターのキュゥべえは、魔法少女からエネルギーを得るシステムについて、次のように説明した。

「君たちの魂はエントロピーをくつがえすエネルギー源たりうるんだよ。とりわけ最も効率がいいのは、第二次性徴期の少女の希望と絶望の相転移だ」(第九話)


 この「エントロピー」という言葉も、正確な物理学の用語というより、アシモフが用いたような「たとえ」の表現に近いと見るべきであろう。
 我々の魂がエントロピーをくつがえすエネルギー源たりうるのは、我々がいずれは死を迎えることを知りつつ生きるものであるからだ。生きるとは、もともと理不尽なものなのだ。(註3)
エネルギー源として「第二次性徴期の少女」が「最も効率がいい」という理由は明らかである。この時期の少女は死と対峙しながら、新たな人間の命をはぐくむ可能性のある自分の身体を肯定しなくてはならないからだ。これには、超弩級の理不尽さが要求される。
 それがゆえに、少女は受難を強いられる。きわめて快適な「条理」に満ちた「世界の最先端建築の粋を集めたハイテク未来都市、見滝原市」の中で。

        〇
 
 ハイテク未来都市は「死」を隠蔽している。
 だから、死は突然、少女の前に立ち現れる。
 生きるとは何か、世界とは何か、人間とは、女性とは、すべての問題がお互いに絡み合い、束となって少女を襲う。そして、その絶望的な解答を前に、少女はただ泣く。
 避けようのない滅びも嘆きも、私には覆せない。
 そのための力なんか、私には備わっていない。
 でも、せめて、もう一度、猫を抱かせて。生きている黒い猫をこの手で抱かせて。
 条理に逆らうその祈りは「エントロピーを凌駕」(註4)した。 
 インキュベーターのキュゥべえが近づき、「僕と契約して、魔法少女になってよ」と少女にささやく。……これが、第一のループにおいて起こったことである。
 キュゥべえとまどかの間に交わされた一番最初の契約は、こうして成立した。
 オープニングのラスト近く、まどかは黒い猫を抱いて、青空の下で笑っている。その目から泣いた残りの涙のしずくがツーッとこぼれる。
 目の前の猫の死を、そのまま見過ごすことが、まどかには出来なかった。それを「仕方のないこと」として受け入れるのは、自分自身の生きている根拠までをも脅かすのだ。
 そこにつけこむのが「インキュベーター」である。
 物語の発端がこのエピソードにあるというゆえんである。すべては、そこから始まった。
 
         〇

 暁美ほむらにとっては、まどかからこの話を聞いたことが発端となった。
「クラスのみんなには、ナイショだよ!」と言って矢を放つまどかの姿に、ほむらは魅了された。
 しかし、それだけでは「ほむらちゃんもカッコよくなっちゃえばいいんだよ」というまどかの励ましが、ほむらの絶望に対して効力を持たなかったのと同じく、決定的なものとはならなかった。
 だが、まどかが魔法少女になったのは猫を救うためだったことを知った瞬間、ほむらにとって、この世も、自分も、決定的に、生きる価値があるものとなった。
 かくも理不尽な人がいる!
 ならば、「何にもできなくて、人に迷惑ばかりかける」(註5)でも、この世に生きていっていいんだ。そして、この世界には苦しみに耐えて生きていくだけの価値がある。
 だって、この人がいるから!
 鹿目まどかがこの世界からいなくなったら、暁美ほむらには、また絶望の淵に沈む。
 だから、何度生き直しても、ほむらはまどかをこの世に取り戻さなくてはならない。
 
         〇

 オープニングの画面に目を戻そう。
 オープニング画面のタイトルの後には、ベッドの中でうじうじしている少女の姿が映し出される。
 少女はゆううつである。思い出すのは、今まで自分がしでかした失敗の数々。
 起きる気力も、着替える元気もない。寝巻のまま、ただ蒲団にくるまって丸まるばかり……。
 突然、後ろからやさしく肩に手を回してくるのは、もう一人の自分だ。自分を慈しむ自分。第二次性徴によって、それまでとは全く違う体に変化してしまった自分を愛する自分。
 少女が疾風怒涛の雨の中をよろめきながらでも走っていくには、それが必要なのだ。
 それを得るためには、少女は他の少女によって、何回も産みなおされなくてはならない。
 この「少女たちの疾風怒涛」の仕組みを『魔法少女まどか☆マギカ』は、とても見事に語っているのだ。このような作品がこの世に生み出されたことは奇跡に近いと私は思う。
                               (宮野由梨香)


(註1)いわば、これは、まどかの「発心」の場面である。
(註2)原題「Understanding Physics 1」1966 である。引用は、共立出版の「アシモフ選集」(1969年刊)高野文彦訳・藤岡由夫監修)に拠った。
(註3)だから、生命体としての当然の反応に、キュゥべえは叫ぶ。「その反応は理不尽だ!」(第11話)
(註4)第10話でキュゥべえは、ほむらの願いをかなえる際に「その祈りはエントロピーを凌駕した」と言っている
(註5)第10話で自殺しそうになるほむらがつぶやく言葉による。

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2012年10月09日

『魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』ラストの画像について(宮野由梨香)

 『魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』を、娘2人(小5・中1)と一緒に見に行ってきた。映画館に他の「第2次性徴期」の少女の姿はあまりなかった。というか、そもそも女性が少なかった。非常に残念である。この作品は女性、特に第2次性徴の少女に見てもらいたいと思うからだ。見る機会さえあれば少女たちを夢中にさせる内容であると思われるし、娘たちやその同級生たちの反応は充分にそれを窺わせるものがある。
 青年期を「疾風怒涛【ルビ:シュトゥルム・ウント・ドラング】の時代」と呼ぶことがある。精神的にも身体的にも不安定な時期を通り抜けて、人は子供から大人へと質的な変換を遂げる。
 身体の変化は、女性の方が男性よりも早い。
 胸がふくらみ、生理が訪れるようになった少女は「生き物は死ぬ」という事実と必然的に向き合わされる。自分もいつかは死ぬからこそ、自分の身体は子孫を残そうと変化を始めたのだ。それが第二次性徴だ。
 成長とは、死に近づくことである。
 生殖とは、個体の死を前提とする行為である。
 それらはすべて世界を成り立たせる条理とつながっている。自分の生命も今までの人生の過去も未来もすべてがその中にある。だれもそこからは逃れる術はない。
 みんな死ぬ。家族も友達も私自身も死ぬ。子供を産んだって、その子もいつか死ぬ。では、生きるとは、何なのだろう?

         〇

 物語の舞台は「世界の最先端建築の粋を集めたハイテク未来都市、見滝原市」(註1)である。
 ハイテク未来都市は「死」を隠蔽している。
 そこに生まれ育つ少女は、食べものが実はすべて死骸であること、あるいは生餌であることを認識する機会を奪われている。食べものは商品として店に並ぶものだ。肉を食べても、殺された動物のことをいちいち考えたりはしない。
 少女たちが通う学校には、死角がない。廊下を歩く人の姿も、教室の内部も、明確に見通せるガラス張りの設計になっている。どこにも身を隠す場所がない。
 死角がないから、いじめや盗難も起こりにくい。というか、起こる余地がないように考えられた校舎なのだ。
 机に引き出しはない。テキストは画面に映し出されるし、ノートもキーボードを叩けばいいから、鉛筆も消しゴムも要らない。教室に黒板はない(註2)。一見ホワイトボートに見えるが、実は、スクロールもでき、ペン入力も可能な電子画面なのである。チョークの粉が降りかかることもなく、手を汚すこともない。 
 理想的な設備の整った学校……それが見滝原中学だ。
 ここでは電気もクリーンな風力発電で得られるらしい。通学路には人工の小川が流れ、緑も多く、快適で便利で安全だ。
 そして、このような場所にこそ「魔女」は発生する。生きるということに伴う不快で不便で危険な部分が、発散の機会と場所を与えられていないからである。そして、こういったものは、抑圧されるほどに熟成されて噴き出てくるものなのだ。
魔女の口づけを受けて、集団自殺を図ろうとする男は、次のようにつぶやいていた。

「そうだよ、俺はダメなんだ。こんな小さな工場ひとつ、満足に切り盛りできなかった。今みたいな時代にさぁ、俺の居場所なんて、あるわけねえんだよな……」

 自らの能力に絶望し、生きる経済的基盤も失い、自殺を図る男……こういった人物を発生させるのも「見滝原」だ。
 このディストピアにあって人々が求めるのは「見たき胎【ルビ:はら】」である。
 ホモ・サピエンスの受精卵は胎の中で十月十日を過ごしてから、外へ産み出される。その胎をインキュベーター(孵卵器)と同じものだと考えるのが、ハイテク未来都市である。インキュベーターにとって卵はどれも同じ「消耗品」にすぎない。卵の親も代替可能な「家畜(註3)」である。ひとつひとつの卵の運命などどうでもいいし、家畜は有用でなければ存在価値がない。
 ハイテク未来社会の中で、インキュベーター的なものの見方に我々は意識することなく染まっていく。そして、自分自身をも同じような目で値踏みする。結果、生きられなくなり、自殺する人もいる。
 「見たき胎」……それは、インキュベーターではない胎のことである。中に宿った生命を唯一無二の存在として慈しみ育てる胎といってよい。だが、それは未来において実現させたい希望としてしか、まだこの地には存在しない
 そもそもタイトルの『魔法少女まどか☆マギカ』……意味だけを考えるのなら『魔法少女まどか』で十分である。では、なぜ「マギカ」がついているのか? 
 それは、マの頭韻を踏むことによって、ママ=母なるもののイメージを付加することを、作品テーマが要求したからである。
 『新世紀エヴァンゲリオン』が「母であることの受難と、それによる、子の受難」を扱ったもの(註4)とするならば、『魔法少女まどか☆マギカ』は、「母となるべき身体をかかえた少女の受難」を扱っている。そして、少女の受難は、すべての生きとし生けるものの受難へとつながるのだ。

           〇

 『魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』のラストには、TV版にはない映像が付け加えられていた。まどかを胎児として孕む女性のシルエットである。しかし、そのシルエットはキュウべえを連想させるようなものなのだ。
 練られ練られた象徴的な画像のラストにつけ加えられた奇妙に薄っぺらなその画像は、見滝原の俯瞰に加えられた海の情景とセットになって、見る者に新たなメッセージを伝えようとしているようである。(宮野由梨香)


(註1)虚淵玄は「「魔法少女まどか☆マギカ」の世界に入り込んだら、何をしてみたいですか?」という質問に「世界の最先端建築の粋を集めたハイテク未来都市、見滝原市を隅々まで観光してみたいです。」と答えている。(「魔法少女まどか☆マギカ展 記念ブックレット」五ページ)
(註2)脚本には「黒板」とあるが、暁美ほむらが名前を書くボードは白い。その後の授業での使われ方から、これが電子画面であることがわかる。
(註3)「女性=家畜」のアナロジーは、「女は人間扱いしちゃ駄目っすね。犬か何かだと思って躾けないとね」という男の発言が作中にあった。
(註4)高田明典「アニメーション構造分析方法論序説―『新世紀エヴァンゲリオン』の構造分析を例題として」(青弓社〈ポップ・カルチャー・クリティーク〉0・『「エヴァ」の遺せしもの』所収)等の指摘による。
posted by 21世紀、SF評論 at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | SF評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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