2012年10月11日

黒猫とエントロピー……DVD版『魔法少女まどか☆マギカ』(宮野由梨香)


 既にすっかり『まど☆マギ』館と化している宮野の家であるが、1年前はこうではなかった。出窓にフィギュアもなければ、壁にタペストリーもなかったのだ。ううう。。。
 近所の店で『魔法少女まどか☆マギカ』のDVDをレンタルしてきたところから話は始まる。
 最初に見た時は、こんな感じであった。

母「行かせねえっ! 絶対に行かせないからなぁっ!!」(と、叫んで、娘を抱きしめる)
娘「あの〜、世界が滅びますけど…」
母「いいの。世界なんかほっとけばっ」
娘「でも、友達が…」
母「友達なんか、どうでもいいのっ」
娘「でも、ほむらちゃんは何度も…」
母「私だって、あんたを3回産みなおしたんだぁっ」
  (宮野は娘を産む前に2回流産している)
娘「じたばた じたばた」
母「『ワルプルギスの夜なみにうざい魔女かも』と思っただろ?」
娘「うん」

 そして、宮野は詢子さん・知久さんを罵倒し、和子さんを非難した。なぜって、何度くりかえしてもまどかが「魔法少女」になってしまうのは、あの連中のせいでもあるもんね。
 和子さんについては既に書いたがhttp://prologuewave.com/archives/1577#extended、あの関白亭主と良妻賢母の性別を単に逆転させただけの夫婦も問題だらけだ。しかし、まあ、彼らが悪いわけでもなく、そこが「見滝原」なんだよね。そういう意味で、とても深い問題提起をしていると思った。
 そこらへんを、じっくり考えてみたくなったので、DVDをまとめて買った。

魔法少女まどか☆マギカ 1 【完全生産限定版】 [DVD] / 悠木 碧, 斎藤千和 (出演); 新房昭之 (監督)

 娘たちは、私よりも何度も何度も見ていた。その頃、娘たちの友人には『まど☆マギ』を知っている子はいなかったそうである。娘たちは熱心に「布教」に励んだらしい。(いや、単に家に遊びに来る友人たちに片端から『まど☆マギ』を見せていただけなんだけど)

 そんなある日、オープニングの最初の画像を見て、「どうして泣いているんだろう…?」
と私がつぶやいたら、姉娘が「猫が死んじゃったからだよ」と言った。
「ほら、だから、ここで、猫を抱いて笑っているでしょ? 猫を助けてもらう代わりに魔法少女になったのが一番最初のループだから、ここから始まるんだよ」
 私は驚いた。
「それ、自分で考えたの?」
「え? だって見ていれば、わかるじゃん」と姉娘(当時小6)が言った。
「うん。見ていればわかる」と妹娘(当時小4)も言った。
 そのとたん、私にもいきなりわかったのだった。つまり、そういうことだったのだということが。

             〇

 黒い猫が死んだ。
 この出来事が、『魔法少女まどか☆マギカ』という物語の発端である。
 黒猫の死によって、主人公・鹿目まどかは「疾風怒涛の時代」に足を踏み入れた。
 一輪の薔薇がすべての薔薇であるように、一匹の猫の死はすべての生命の死だ。そう、生命とは死ぬものなのだ。
 そのことに向かって、少女は泣く。肩を震わせて、しゃくりあげる。
 少女が発見したのは、「生きているものは必ず死ぬ」という条理である。
 もちろん、それまでだって知っていた。知識としてはあった。だが、目の前のひとつの死が、このようなつながりとして我が身に突き付けられてきたのは、はじめてだ(註1)。
 雨が降っている。疾風怒涛の時代の始まりを告げる雨だ。雨に濡れつつ少女は涙を流す。
 少女の落とす二滴の涙の波紋が静かに広がる。
 少女の向こう側に木々の緑が、そのまた向こうには高層建築のシルエットが浮かびあがる。少女が棲む「世界の最先端建築の粋を集めたハイテク未来都市、見滝原市」である。
 
          〇

 SF作家、アイザック・アシモフは、科学解説書の執筆の方でもすぐれた著作を多く残している。
 名著との呼び声高い『物理とはT 運動・音・熱』(註2)で、アシモフは「熱力学の法則」についても説明している。言うまでもなく、熱力学の第一法則とは「エネルギー保存の法則」のことであり、第二法則とは「エントロピーの法則」のことである。
 アシモフは、この法則についてまずひととおり説明してから、次のように書いた。

 宇宙ということばを使えば、熱力学の法則はつぎのように最も一般的に述べることができる。つまり第一法則は、宇宙の全エネルギーは一定であるということができ、第二法則は、宇宙の全エントロピーは増加し続けているということができる。(三一六ページ)


 そして、このページの説明には、次のような脚注が施してある。

 たとえていうと、第一法則では君は勝つことができない≠ニ述べており、第二法則は君は引き分けにすることもできない≠ニ述べているといえる。(三一六ページ)


 このアシモフのたとえを、生命と死との戦いにあてはめて、言いなおしてみよう。

 生命は死に勝つことができない。また、引き分けにすることもできない。


 このようになる。
 生きるというのは「勝つことも引き分けにすることもできない」戦いを続けることだ。
 インキュベーターのキュゥべえは、魔法少女からエネルギーを得るシステムについて、次のように説明した。

「君たちの魂はエントロピーをくつがえすエネルギー源たりうるんだよ。とりわけ最も効率がいいのは、第二次性徴期の少女の希望と絶望の相転移だ」(第九話)


 この「エントロピー」という言葉も、正確な物理学の用語というより、アシモフが用いたような「たとえ」の表現に近いと見るべきであろう。
 我々の魂がエントロピーをくつがえすエネルギー源たりうるのは、我々がいずれは死を迎えることを知りつつ生きるものであるからだ。生きるとは、もともと理不尽なものなのだ。(註3)
エネルギー源として「第二次性徴期の少女」が「最も効率がいい」という理由は明らかである。この時期の少女は死と対峙しながら、新たな人間の命をはぐくむ可能性のある自分の身体を肯定しなくてはならないからだ。これには、超弩級の理不尽さが要求される。
 それがゆえに、少女は受難を強いられる。きわめて快適な「条理」に満ちた「世界の最先端建築の粋を集めたハイテク未来都市、見滝原市」の中で。

        〇
 
 ハイテク未来都市は「死」を隠蔽している。
 だから、死は突然、少女の前に立ち現れる。
 生きるとは何か、世界とは何か、人間とは、女性とは、すべての問題がお互いに絡み合い、束となって少女を襲う。そして、その絶望的な解答を前に、少女はただ泣く。
 避けようのない滅びも嘆きも、私には覆せない。
 そのための力なんか、私には備わっていない。
 でも、せめて、もう一度、猫を抱かせて。生きている黒い猫をこの手で抱かせて。
 条理に逆らうその祈りは「エントロピーを凌駕」(註4)した。 
 インキュベーターのキュゥべえが近づき、「僕と契約して、魔法少女になってよ」と少女にささやく。……これが、第一のループにおいて起こったことである。
 キュゥべえとまどかの間に交わされた一番最初の契約は、こうして成立した。
 オープニングのラスト近く、まどかは黒い猫を抱いて、青空の下で笑っている。その目から泣いた残りの涙のしずくがツーッとこぼれる。
 目の前の猫の死を、そのまま見過ごすことが、まどかには出来なかった。それを「仕方のないこと」として受け入れるのは、自分自身の生きている根拠までをも脅かすのだ。
 そこにつけこむのが「インキュベーター」である。
 物語の発端がこのエピソードにあるというゆえんである。すべては、そこから始まった。
 
         〇

 暁美ほむらにとっては、まどかからこの話を聞いたことが発端となった。
「クラスのみんなには、ナイショだよ!」と言って矢を放つまどかの姿に、ほむらは魅了された。
 しかし、それだけでは「ほむらちゃんもカッコよくなっちゃえばいいんだよ」というまどかの励ましが、ほむらの絶望に対して効力を持たなかったのと同じく、決定的なものとはならなかった。
 だが、まどかが魔法少女になったのは猫を救うためだったことを知った瞬間、ほむらにとって、この世も、自分も、決定的に、生きる価値があるものとなった。
 かくも理不尽な人がいる!
 ならば、「何にもできなくて、人に迷惑ばかりかける」(註5)でも、この世に生きていっていいんだ。そして、この世界には苦しみに耐えて生きていくだけの価値がある。
 だって、この人がいるから!
 鹿目まどかがこの世界からいなくなったら、暁美ほむらには、また絶望の淵に沈む。
 だから、何度生き直しても、ほむらはまどかをこの世に取り戻さなくてはならない。
 
         〇

 オープニングの画面に目を戻そう。
 オープニング画面のタイトルの後には、ベッドの中でうじうじしている少女の姿が映し出される。
 少女はゆううつである。思い出すのは、今まで自分がしでかした失敗の数々。
 起きる気力も、着替える元気もない。寝巻のまま、ただ蒲団にくるまって丸まるばかり……。
 突然、後ろからやさしく肩に手を回してくるのは、もう一人の自分だ。自分を慈しむ自分。第二次性徴によって、それまでとは全く違う体に変化してしまった自分を愛する自分。
 少女が疾風怒涛の雨の中をよろめきながらでも走っていくには、それが必要なのだ。
 それを得るためには、少女は他の少女によって、何回も産みなおされなくてはならない。
 この「少女たちの疾風怒涛」の仕組みを『魔法少女まどか☆マギカ』は、とても見事に語っているのだ。このような作品がこの世に生み出されたことは奇跡に近いと私は思う。
                               (宮野由梨香)


(註1)いわば、これは、まどかの「発心」の場面である。
(註2)原題「Understanding Physics 1」1966 である。引用は、共立出版の「アシモフ選集」(1969年刊)高野文彦訳・藤岡由夫監修)に拠った。
(註3)だから、生命体としての当然の反応に、キュゥべえは叫ぶ。「その反応は理不尽だ!」(第11話)
(註4)第10話でキュゥべえは、ほむらの願いをかなえる際に「その祈りはエントロピーを凌駕した」と言っている
(註5)第10話で自殺しそうになるほむらがつぶやく言葉による。

posted by 21世紀、SF評論 at 13:41| Comment(6) | TrackBack(0) | SF評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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