2013年07月30日

『吉田一穂詩集』(石和義之)

《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日〜8日に開催された夕張での第51回日本SF大会(Varicon2012)を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」(北海道に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト(http://www.varicon2012.jp/index.html)で連載されたものと重複しますが、単なる縮約にはとどまりません。より広い読者へ向け、SFの意義を提示する開かれた文章を目指しました。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

『吉田一穂詩集』
作者:吉田一穂
初出:岩波文庫 2004 ※加藤郁乎編
最新版:(初出に同じ)
担当:石和義之
吉田一穂詩集 (岩波文庫) [文庫] / 吉田 一穂 (著); 加藤 郁乎 (編集); 岩波書店 (刊)
 21 世紀の平成日本において、吉田一穂の詩を読んでいると、何か途方もない時間錯誤の世界に足を踏み入れたようで、その方向性の喪失感覚は、なかなか愉快なものだ。「虚落の底に、渦まく衝隙の泡の誕生」(「海鳥」)のような表現スタイルは、端から空気を読もうとしない愚鈍の確信に由来する。かつてある批評家は、愚鈍は凡庸の反意語だと定義したが、凡庸とは空気を敏く読めてしまう貧しい賢さのことだ。「芸術」を確信する吉田の言葉は、今という時代と行き違うことによって、今の時代の性格を逆照射してもいる。「信を失すれば人間の立像は崩れてしまふ」(「あらのゝゆめ」)と吉田は語る。けれども人間の立像が崩れてしまっていることが常態化しているのが現代というものだろう。人はもはや「信」を希もうとはせず、空気だけを察知しようとする。
 超越性への感覚が顧みられなくなったどころか、そのような実存の問題にこだわったとたん「負け組」に転落してしまうような世界に私たちは住んでいる。既存の体系の外で目覚めたらアウトなのだ。芸術の終焉が実存の終焉でもあった。汎地球的なこのような文化現象は、日本の文化シーンにおいては70 年代後半以降、はっきりと認識されるようになった。コピー、大衆状況、構造主義などのキーワードが思い浮かぶが、芸術や実存を現代において真に生かしめるには、そこから目を背けることは許されない。ポエムな世界に撤退するわけにはいかない。

2013年07月05日

ブルース・スターリング「招き猫」「江戸の花」(高槻真樹)

《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日〜8日に開催された東京での第49回日本SF大会(tokon10)を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」(東京に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ(http://blog.tokon10.net/)および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)


ブルース・スターリング
「招き猫」
(「SFマガジン」1986年10月号 小川隆訳) 「招き猫」
「江戸の花」
(「SFマガジン」1997年1月号、『タクラマカン』所収 小川隆訳)
評者:高槻真樹
江戸の花.png
招き猫.png
 商店街でよく見かける招き猫は、われわれにはただの「商売繁盛」のアイコンである。しかし欧米の文化圏から見れば、不思議で神秘的な存在に見えるのかもしれない。
 ブルース・スターリングの短編「招き猫」では、招き猫が極めて重要な役割を果たす。舞台は近未来と思われる東京だが、欧米人が陥りやすいフジヤマ・ゲイシャ+ハイテクの歪んだ日本が強調された形で描かれている。そのことに引っかかる読者も多いようだ。
 だが知日派のスターリングが本気でこんな日本を信じているはずがない。歪んだ日本像をあえて利用することで、風刺的・戯画的な空間を狙っているようにも思える。
 ドタバタなガジェットに惑わされず冷静にストーリーを追っていくと、携帯端末で他人を騙して操ったり別人になりすましたりと、現在ありふれたものになっているネット犯罪を正確に予見していることに驚かされる。忘れてはいけない。本作品が書かれたのはネットがパソコンの主役になる少し前のことなのだから。
 スターリングは本質的にジャーナリストであり、情報を正確に集め分析する能力には驚かされる。あまりに思考が早すぎて同時代的にはぴんとこない難点はあるかもしれないが、後の時代から検証してみると、その思索の深さに驚かされる。
 発表当時は、『SFマガジン』への欧米作家の書き下ろしという表面的な話題ばかりが先行した「江戸の花」も、正確な明治日本の描写に圧倒される。江戸の花、とは火事のこと。スターリングは火災をリセット行為として描く。江戸期の何度かの大火による再建も同様だが、そこに異文明の流入が同調したために、景観が一新され「東京」が生まれた。タイトルは必然であり、極めて巧妙だ。
 そのにわか作りの東京で二人の男が対峙する。西洋合理主義の代弁者として登場するのは近代落語の父・三遊亭円朝。他方、江戸的土俗性の側にある人間として描かれるのは血みどろの残酷絵で知られる鬼才浮世絵画家・月岡芳年。
 円朝は「牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」など優れた怪談の作り手だったが、妖異を信じず、常に主人公の恐怖から生じる幻影とも解釈できるような二重構造を設けた。日本流モダンホラーの始祖と言えるかもしれない。そんな円朝が残酷怪異の画家芳年の前にシルクハットの洋装で現れる。かなり調べたが、円朝が洋装であったという記録はどこにもなかった。明治初期はまだまだ和装が主流のはず。つまりスターリングは承知の上で、象徴的な演出として円朝に洋装をさせたのだろう。
 スターリングは文明開化を一種の「ファーストコンタクト」として描いている。そこには異文明同士の接触による逆行不可能な認識の変革がある。表面的には一方が他方を打ち負かして併呑したかのように見えても、実際は他方も姿を変え、水面下に沈潜し生き続ける。本作品に登場する電気の魔物もそうした変化のひとつである。
 川崎市市民ミュージアムの湯本豪一学芸員による労作『明治妖怪新聞』(柏書房)には、西洋化の波の中にあってもしたたかに生き延びていった妖怪たちの姿が記録されている。大新聞・小新聞を問わず、明治期の新聞を紐解いてみると、大量の妖怪出現を報じる記事が発見される。江戸時代には身内の噂話でしかなかった妖怪譚は、活字というメディアの力を得てむしろ勢力を拡大していたのだ。湯本は言う。「『近代』と『妖怪』は一見、相反するように見られがちだが、実は近代という時代のほうが妖怪が住み易い環境だったと考えられる」(湯本豪一「明治の新聞にみる妖怪」/『有鄰』416号/2002年7月10日)
 この物語の結末部で、魔物は自信たっぷりに語る。
「うけいれるさ! そうしなきゃならんのだぞ!」
 そう、まったくそのとおりだ。私たちは今も異形の魔物と共に暮らしている。
posted by 21世紀、SF評論 at 16:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 東京SF大全(スーベニアブック版再掲) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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