2014年02月20日

初夢「荒巻義雄は菩薩である」証拠より論(大和田始)初出:「SF論叢」4号(1980)


 《お知らせ》
 翻訳家の大和田始さまが、「SF論叢」誌の4号に発表した「初夢「荒巻義雄は菩薩である」証拠より論」(1980)について「21世紀、SF評論」への再掲許可を出してくださいました。
 この場を借りて大和田さまのご厚意に感謝いたします。
 読者の皆さまにおかれましては、遊び心と思わぬ洞察の深みを愉しんでいただけましたら幸いです。(岡和田晃)


初夢「荒巻義雄は菩薩である」証拠より論
 大和田始(初出:「SF論叢」4号)

札幌ストーリー 荒巻義雄は1970年から73年にかけて、フルパワーでSFマガジン誌上を駆けぬけた。この時期に彼の作家としての可能性の中心が発光している。初期短編をまとめた『白壁の文字は夕陽に映える』や『柔らかい時計』の中の作品は問題作ぞろいである。その中から、第二作「種子よ」が『神聖代』に発展し、第4作「ある晴れた日のウィーンは森の中にたたずむ」が『白き日旅立てば不死』となり、72年の白亜シリーズは『時の葦舟』にまとめられた。人触れれば人を斬り、馬触れれば馬を斬るこの当時の荒巻義雄の快走ぶりは、手のつけようもない。


恋文・義雄菩薩 荒巻論として知る限りで最もすぐれているのは早川文庫版『白き日――』の鏡明の解説だ。ここに、荒巻義雄という名の電車ならざる問題が集中的に露出している。要約しちゃう。
a 荒巻義雄の描く世界は白い。狂気の、別世界の白さ。
b 視ることと物語を語ることが同居している。
c あいまいさ。何度も、視点をかえて説明がほどこされる。だがどれも決定的な説明とはならない。
この3点は同じ一つの問題のあらわれであるように思える。視ることと語ること、言いかえれば《書くこと》と《読むこと》のせめぎあいのドラマが作品の中に共在しており、作品とはその二つの作用の闘技場であり、本質的に作品は進行中のものとなるのだ。あいまいさと白さは、極めて荒巻的なこの運動の属性であるだろう。荒巻義雄が菩薩でありうるとするならば、それは彼がこの闘いを闘いぬくところに求められる!
のちほど、プレイバック?
菩薩.jpg

視線上のアリア 荒巻義雄は あとがき魔であり、多くのあとがきを残している。しかもそれが普通の「作家のあとがき」とは著しく異なっている。『神聖代』では「あらかじめ意図された作家の計画に従って注意深く、いわゆる文学(既成的意味の)たることを放棄した作品である」という宣言がなされ、『神州白魔伝』では「我々は、今こそ小説を超した小説を書かねばならない。この小説を超えるとは、小説が本来の虚構性に立ちもどった姿である」と誌される。いわゆる〈物語性の復権〉テーゼでもあるだろうが、ここには旧来の小説に対する根本的な違和感も表されている。〈書くこと〉には必然的に〈読むこと〉がきもなう。〈読みかえし〉のない〈書くこと〉はありえない。論者の中には〈書くこと〉は〈読むこと〉の一分枝にすぎないと見る人もいるほどである。荒巻作品が従来の小説と決定的にずれてしまうのは、奇妙な言い方だが、〈書くこと〉よりも〈読むこと〉を重視してしまうところにあるだろう。『神州白魔伝』とは、平賀源内の冒険を〈読むこと〉について書かれた作品ではないだろうか。
視線上のアリア.jpg

センチメンタル・ハリケーン 非文学であるか、小説を超えているかどうかはともかく、確かに『時の葦舟』を読むとき、ぼくたちは当惑させられる。これが小説であるためには何かが欠けているのではないか、もっと深みのある世界が描かれていてもよいのではないかというような不満をもってしまう。この不満、それはたとえば「聖杯物語」などを読むときに感じられるものに近いのだろう。おそらく、たぶん『時の葦舟』は物語なのだ。
LA.jpg

ブルジョワジーに走って 本号の論文でワトソンが述べているように、小説という文芸形態は市民階級と〈相即〉的な関係にある。そこには神中心の思考はなく、人間生活が中心に語られる。俗なる人間の俗なる日常、感情、過去、記憶。そのような小説を〈虚構〉と呼ぶとすれば、テクノロジーとユートピア志向とが結婚した小説、非日常を、存在しないものを語る小説は〈仮構〉と呼ぶべきだろうか。


牡牛座宮 小説にあっては個人は一人ひとり分断され、それぞれの欲望をもってうごめいているわけだが、資本主義が一段階すすみ、パルコの広告に特徴的なように、イメージによってぼくたちの脳味噌がからめとられ、差異性の戯れとしての商品が張飛している現在、個人の欲望や行為はたちまちのうちに先取され、均質化されてしまっている。荒巻義雄の作品は一見古めかしく、現代性などには乏しいとも思えるが、物語に近づくことによって、小説の属性とされる深層を失い、そのことによって現代的な性格をかちえているようだ。とはいえ、荒巻に即して考えるとすれば、むしろSFという虚構の上に、さらに屋上屋を架したと見るほうが正解かもしれない。この間の事情をウォルハイムは「SFはSFの上につくられる」と喝破したのである。この定理の革命的な意義についてはプレイバックするとして――


曼珠沙華 まづ和歌の本歌どりを考へてみやう。浅沼圭司の『映ろひと戯れ――定家を読む』にはヂュリア・クリステヴァの仮説が紹介されてゐる。彼女はヨオロツパの歴史を二分し、十三世紀から十四世紀にかけて、象徴的思考が記号的思考にかはつたとしてゐるらしい。日本にこれと匹敵するやうな変化を求むるとすれば、おそらく鎌倉時代がその分岐点になるだらう。そして定家の、日本古代を総括し哀惜する歌
  春の夜の夢の浮橋とだえして
     峯に別かるる横雲の空
がその指標となるだろう。ほいでもって本歌どりとは、理念的な世界・象徴的な思考の世界に所属する本歌から象徴性を奪いとり、記号=仮構に変える行為ということになる。この二つの歌の間の関係は「いわば二枚の鏡の間に現れ出たイマージュの反映の戯れ。(中略)外へでて現実の世界に接することも、その上へ超え出て理念的なものに向うこともない」


たちまちプレイバック なんじゃこりゃ。SF論かいな――本歌どられたSFは、それがもつ象徴性を奪いとられ、たとえばタイム・マシンといったような記号として伝送され、それを超えでることがない。「SFはSFの上につくられる」とは"アイディア" 奪いあいの果てに現出した本歌どりどられの一大白痴、桃源郷、SFの黄金時代の核心をついた名言と申すべきだろうか!


しなやかに歌って 「小説が原泉とする《記憶》を欠いているため、荒巻義雄の作品は《表面的》なるものとならざるをえない。《背後》の深さはここではゲーム的な錯綜としてあらわれ、身体ではなく脳髄を刺激する。《白熱》するのだ。


マホガニー・モーニング ジャスパー・ジョーンズは記号を題材にえらぶことによって、作品を《背後》への無限の溯行から決定的に《表面》へもち来たらす。タブローを星条旗そのものと同一化することによって、作品は《背後》のない純粋な《表面》になるのである。(中略)たえず《記憶》を打ち消してゆく時間論的な《現在》の永遠の自己運動の苦渋に満ちた軌跡は、ここ(プライマリー・アート=引用者註)ではついに、完全に《記憶》を拭い去った《表面》の現前にまで到達するのである。(宮川淳『引用の織物』より)


名前のない時間 『時の葦舟』は神話的な物語。そして第1話「白い環」は最も古く純潔な、おそらくは中生代以前(!)の世界である。ところでこの短編を、現代の科学の用語をつかって解釈してみよう。鏡面反射によって自己励起した粒子が相対性原理の不思議で未来へと旅し、恋という磁場に捕えられ、鏡の回廊をもつ白い環のサイクロトロンの中に封じこめられ、左右逆転の反粒子と対消滅するという物語になるだろうか。「白い環」とはその過程を記録した原始乾板である!
15才.jpg

鏡の中のある日 「白い環」で重要なのは鏡のモチーフだろう。面的な街をうつす大鏡面。面と表面の戯れ。たとえ鏡像であったとしても、遠くのものは小さく見えるはずなのに、作品はすべてを近いものとして語っているかのようだ。"自己"を中心とする遠近構造がくずれ、すべてが等距離のものとして立ち現れている。関係の等価値性、経済の悠久性によって "真の自己"は到達しにくい境地となっているのだ。占卜が繁昌しているのはその代替作用でもあろうか。鏡が、夢が、個人の欲望・運命・ありうべき位置をあきらかにする。
百恵白書.jpg

湖の決心 ソルティの街のある谷間全体を"自我"とみなしてみよう。閉ざされた自我。揺籃期の幼児の夢の自我。鏡面が谺をかえさないのは当然といえよう。住民たちに過去はなく、時間もない。ゴルドハはそこをぬけだしていく。だが外にはトカゲというあまりに弱い敵しか存在していない。空間と時間を知ったゴルドハは再び内攻する。そして「時の旅人」を知る。鏡に映らない男。高次の自我を象徴する男。導師クリストファネスは内海にうかぶ舟にゴルドハを遣る。鏡の胎道をぬけて、交合の追体験として、ゴルドハは受精時の彼自身に出会う。
湖の決心.jpg

イミテーション・ゴールド 無茶苦茶なる "解釈"だが、『神聖代』の解説で筒井康隆が書いているように、荒巻の作品は「内宇宙へ指向する者の『聖書』」であり、作品それ自体、ないしは《背後》に「内容」や「意味」があるのではない。荒巻の作品とは「曼荼羅」や「十牛図」として、一幅の絵として、鏡として、《記憶》や《背後》を欠いた《表面》として我々の前に投げだされているにすぎないのだ。読者はおのおのの似姿をそこに見いだすほかはない。


イミテーション・ホワイト・ホール 問答無用・義雄秘法 荒巻義雄が問題となるのは、SFの仮構世界を築きあげ、『時の葦舟』におけるように、作品のぬしとして振るまうかにみせかけながら、結局はその世界を不分明のものとして放り出し、自らも無知なる一個の読者としてその世界を読もうとする態度であるだろう。作品をこのような文学装置=仕掛としてしまうあり方に、荒巻が我々にもつ意義がある。彼自身は「物語」であると擬装しつつ、ぬし的なふるまいをおこたってはいないが、実際には作品を《内側》に《深さ》に読むのではなく、《外側》に《浅さ》に読んでいるのだ。その間の事情は「〈想像〉は内に向う心の動きであるが、一方〈空想〉はそれとは逆に外に向って拡散する心の働きなのである」と述べられている。荒巻義雄という一個のエゴにおいて作品を終結させようとはしていないのである。
時の葦舟.jpg

夢先案内人 「 "世界" の意味を教えることが、はたしてよいことかどうか、少なからずためらいますが」と「時の葦舟」の登場人物は語っているけれども、その"意味" とは、おそらく、世界が他者の夢裡のものであるということだろう。とはいえこれは、「黒いものは、不意にかき消えた。(中略)"世界"の意味もかき消える……」と最後の二行が示唆するように、作品が尻をまくると同時に無意味になってしまう。「種子よ」の中にもすでに、この世界は何者かの夢、あるいは異次元から投影された映像ではないかという記述がある。この発想自体は目新しいものではないが、夢また夢という構図を装置として作中にくりこみ、「底なしの深さのなさ」を生んだのは荒巻をもって嚆矢とするのかもしれない。


継承と断念 今やぼくたちは《記憶》と《背後》を読むことによる「文学的感動」というべきものを諦めなければならない。ぼくたちの魂は『神聖代』や『時の葦舟』を読んでうちふるえる。しかしこれは文学装置的振動と呼ぶべきなのだろう。
残虐行為展覧会.jpg

悲願花 妄想言語系は突然の中断をむかえる。荒巻義雄について考えなければならないことは多い。とりわけルイス・キャロルや宮沢賢治との関連で語らなければならないだろう。ただ、今ようやく長い夢から醒めたばかりの当方にその準備はない。いつの日か初夢が……


参考文献
荒巻義雄『白壁の文字は夕陽に映える』早川書房
    『柔らかい時計』徳間書店
    『神聖代』徳間書店
    『ある晴れた日のウィーンは』カイガイ出版
    『白き日旅立てば不死』早川書房JA文庫
    『時の葦舟』講談社文庫
    『神州白魔伝 九来印之壺の巻』奇想天外社
浅沼圭司『映ろひと戯れ――定家を読む』小沢書店・叢書エパーヴ
宮川淳 『引用の織物』
平岡正明『山口百恵は菩薩である』講談社

Web註「ブルジョワジーに走って 本号の論文でワトソンが述べているように」という記述は、掲載号に翻訳されたワトソンとプリーストの対論「SF形式と内容」を指している。
posted by 21世紀、SF評論 at 16:13| Comment(0) | TrackBack(0) | SF評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月16日

三岸好太郎――知覚の開拓者――(関竜司)

《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日〜8日に開催された夕張での第51回日本SF大会(Varicon2012)を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」(北海道に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト(http://www.varicon2012.jp/index.html)で連載されたものと重複しますが、単なる縮約にはとどまりません。より広い読者へ向け、SFの意義を提示する開かれた文章を目指しました。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

※プログラムブック版「北海道SF大全」再掲は、本稿でもって完結いたしました。

三岸好太郎――知覚の開拓者――
北海道立三岸好太郎美術館にて鑑賞可能;
http://www.dokyoi.pref.hokkaido.jp/hk-mikmu/
担当:関竜司
 三岸好太郎(1903 − 1934)は、北海道を代表する洋画家である。三岸は「人間の感受性は常に極めて順応的」であり、「新しい社会環境から新しい美的価値は生れる」(「転換」)とし、常に新しい様式にチャレンジし続けた画家だった。三岸が手掛けた作風は、アンリ・ルソー風のプリミティブなものから、岸田劉生風の写実、ルオー風の道化師のシリーズ、さらにはシュールレアリズムやドイツのバウハウスから影響を受けたものまで多岐に渡る。この新しい美的価値をつねに開拓しようとした精神の背後には、北海道の開拓者精神が宿っている。特に札幌農学校には、開拓時代の初期からクラーク博士の弟子たちがマサチューセッツから呼ばれ、近代的な農学・植物学に根差した品種改良や洋式農具によるアメリカ流の大農法が伝えられた。こうした農学校の開拓者精神あるいは科学に対する信頼が、道民に与えた影響の大きさは、すでによく知られている。三岸が外国の絵画の方法論(様式)を、貪欲に吸収し表現していったのも、開拓者精神・科学に対する信頼を背景にしたものだろう。三岸はSFという言葉が知られる以前から、SF精神を体現していたのである。

2014年02月11日

『鉄男 THE BULLET MAN』(藤田直哉)

《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日〜8日に開催された東京での第49回日本SF大会(tokon10)を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」(東京に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ(http://blog.tokon10.net/)および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

※スーベニアブック版「東京SF大全」再掲は、本稿でもって完結いたしました。

塚本晋也
『鉄男 THE BULLET MAN』
(海獣シアター製作、アスミック・エース配給、2010年)
評者:藤田直哉
鉄男 THE BULLET MAN 【パーフェクト・エディション Blu-ray】 / 塚本晋也, エリック・ボシック, 桃生亜希子, 中村優子, ステファン・サラザン (出演); 塚本晋也 (監督)
 「世界貿易センタービルが崩れ落ちるさまを見て、美しいと思えるほど子供ではなくなった。/かつて鉄男の雄叫びに歓喜した我々は、不景気に抗い、慎ましやかな生活を送っている」(『完全鉄男』p101)
 『鉄男 THE BULLET MAN』(以下『鉄男TBM』)は2010年5月22日に国内公開された塚本晋也監督の映画作品である。1989年に公開され、ローマ国際映画祭でグランプリを獲った『鉄男』の、ストーリーは繋がっていない三作目にあたる。かつて企画のあったアメリカ版『鉄男』を意識して、全編英語の作品になっている。
 作家論的な大まかな流れとしては、『鉄男U BODYHAMMER』(92)や『東京フィスト』(95)で意識したという「都市と身体」のテーマが、『ヴィタール』(04)において、身体から自然というテーマに繋がり、そこから意識の内部を描く『悪夢探偵』(07)『悪夢探偵2』(08)を経て、家族という新しいテーマを発展させて『鉄男』をもう一度語りなおしているのが本作である。
 全編ソリッドな映像と都市描写とスピードで描かれたこの作品は、とてもエッジが尖っていて、触れると切れそうである。東京という都市で生気なく暮らしている男が、怒りの衝動で全身を鉄と化して兵器化していくという物語には、巽孝之の指摘によれば小松左京『日本アパッチ族』のミームが関係している(『塚本晋也読本SRV』)。「鉄を食う」とは、テクノロジーと一体となって生きるということでもあり、戦後の日本が技術国家として重工業に力を入れて発展したことのメタファーでもあるだろう。「鉄を食う」選択をする怒りの原点としては、原子爆弾による敗戦の経験を忘れるわけにはいかない。
 塚本が「兄」と呼ぶ大友克洋の『AKIRA』の、戦後の廃墟を思わせる都市や、核兵器の爆発を思わせるラスト、「破局」に向って突っ走っていく衝動というものが、「ポストモダン」の記号的で遊戯的な日本において同時代的に生じていたのだとすると、塚本の『鉄男』『鉄男U』はまさにそれを描いていた。「もう怖がることはない。美しいと感じた気持ちのままに、ムチャクチャにやってくれ、いちばんでかいものを壊してくれ」とかつて『鉄男U』のエンディングでは語られた。記号操作・バーチャル的な世界に対する「生」の突き付けが破壊ということによって可能だったという時代の空気があったのだとすると、本作はほとんどその衝動への反省である。『バレット・バレエ』(2000)の頃から戦争を意識しはじめたと塚本は言っているが、2010年のインタビューにおいても「現在は仮想現実と思ってボーンと壊してしまうと、それこそすべてを壊滅させてしまってもう元には戻らないという怖さがある」「今の世の中は、たったひとりの無意識の暴力が、世界を崩壊させる力を持っていると感じます」(『塚本晋也読本 SRV』)と述べるという変化が起こっている。
 もはやバーチャルリアルで記号操作的に感じられるようなこの世界は、単なる破壊で「生」を見せ付けることではどうにもならない。「廃墟」を知らない人々が増えたこの現代世界において、破壊ではない形で如何に「生」を取り戻し、如何にして未来を切り開くか。塚本晋也の演じる「ヤツ」の表情と、エリック演じるアンソニーの「悟り」(と彼が呼ぶもの)の凄まじさには、そのことの答えが滲み出ているように見える。都市を破壊して廃墟を作るのではなく、暴力性を内側に取り込んで、体の中に廃墟と暴力性を抱え込んだまま「人」の形を保つこと。「家族」こそがそれを可能にし、破局ではなく「未来」を選択させる。
 このラストの思想は、他律に対する反動を快として感じたポストモダンの思想家の一人である、フーコーの晩年の思想を想起させる。晩年のフーコーは、他律による禁止でも、それがない状態で好き勝手をやることでもなく、自律により「自分自身を美しい芸術作品のように磨き上げていく」(浅田彰「『現在』を考える」)ビジョンを抱いた。他律のない裸の生が電子情報網で管理されてしまう現在において、塚本は身体の持つそのような可能性を、映像と音響の強烈な作用によって映画と観客の身体と神経を融合させることによって体感させ、目覚めさせようとしている。
posted by 21世紀、SF評論 at 17:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 東京SF大全(スーベニアブック版再掲) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。