2010年12月14日

門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』

忘れたという、その空白の隙間で−−門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』試論
岡和田晃



 逃げまどう人々を君は喰らい、焼き、引き裂いて殺しまくった。−−だが、君の心の中の“空しさ”はその都度大きくなり、何を喰っても満たされることがないのだった。やがて、君の内なる増大し続ける“空しさ”は、君自身を喰い始めた。

 −−門倉直人『失われた体』


●もの語り遊戯

 2010年3月、『ローズ・トゥ・ロード』と名指された一冊の本が世に送り出された。

 表紙に描かれているのは昏い森の中を描いた風景画。だが構図はいささか奇妙だ。見る者に自由な連想の飛躍を与えながら、象徴性が特定の箇所に集約されず、ジョルジョーネの絵画のように、朧げな不安をもたらすものともなっている。

 ……忘れられた石碑の上に花輪を持った小妖精が現れて笑いかける。静かに佇立する獣が煌々と眼を輝かせ、森の奥を見遣っている。巨大な茸はこの森が長く人跡未踏の地であったことを示し、茸の根本を、光蟲が森の奥へ何かを誘うように飛んでいく。森の奥からは僅かに一筋の水が流れてくる。その奥は見通せないが、待ち受けているのものがあるのは間違いない−−そうした予感が、読み手へ静かに伝えられる(*1)。

 そして帯文の惹句に記されているのは「もの語り遊戯」というシンプルな言葉。


ローズ・トゥ・ロード (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

ローズ・トゥ・ロード (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

  • 作者: 門倉 直人
  • 出版社/メーカー: エンターブレイン
  • 発売日: 2010/03/27
  • メディア: 大型本





「もの語り遊戯」。これは何を意味するのだろう。

 これは、「言葉を組み合わせ、みんなで物語を作っていく遊び」のことだと『ローズ・トゥ・ロード』には書かれている(*2)。Katie SalenとEric Zimmermanは、「プレイヤーが人工的な闘争を実施する世界であり、その世界は規則によって定義され、その闘争は数量的出力結果を導き出すものである」とゲームのことを定義した(*3)が、ここでの物語遊戯は、著者である門倉直人自身も述べているように、ゲームというよりもむしろ「物語の世界を創って遊ぶ遊戯(プレイ)」に近いものがあるだろう。

 むろん遊戯といってもさまざまな要素が存在するが、『ローズ・トゥ・ロード』のコンセプトは、アイヌ文化のウエペケレのような筋の緩い口承文芸、あるいは連歌のような言葉遊びに近い部分がある。

 それは『ローズ・トゥ・ロード』が定義する「規則」が、「数量的な出力的結果」を生み出すものというよりも、私たちが言語によって生まれる意味を撹乱させ、新たに生まれた意味をより創造的なものへと再解釈させることを志向しているためだと言ってよいだろう。

 『ローズ・トゥ・ロード』を遊ぶためには参加者はそれぞれ書物を持ち寄って集まり、そこから言葉を抜き出して自由に連想を働かせつつ、それらの言葉同士を組み合わせてイメージを遊ばせる。

 一見何の関係もないようなある言葉と別の言葉がいかにして結びつき、その結果、新しく生まれた言葉から、どのような意味、ひいては「物語」が生ぜしめられるのか。

 −−その過程こそを、参加者は自由に想像力を働かせて楽しむということになる(*4)。

 完全な無であった世界に言葉が生まれ、その言葉がさながら生成因子のように新たな言葉を呼び寄せ、巡り巡って思いもかけない意味を生み出す。

 こうした言葉の生成の過程へ、参加者が主体的に参与すること。それが『ローズ・トゥ・ロード』という「もの語り遊戯」の内実である。


●「逸脱」の物語論的な捉え直し

 そして『ローズ・トゥ・ロード』はこの「遊戯」の規則と「遊戯」に必要なデータを示した書物という体裁を取った作品であり、「もの語り遊戯」を遊ぶための情報がひと通り網羅されたものになっている。

 面白いのはこの『ローズ・トゥ・ロード』という「もの語り遊戯」に設定された「規則」が、常にある種の「逸脱」を許容していることだ。この「逸脱」は創造的な要因を孕んでいるが、それを理解するためには、高橋志行の論考が役に立つ。

 高橋志行は、あるゲームを遊び込んだプレイヤーが「ただ与えられたパターンを学習するだけではなく、時にプレイ経験を元手に、新たな学習対象を創造してもいる」ところに眼をつけ、こうした「創造的プレイ」に2種類の方向性が見られることを指摘した。それはすなわち「A.与えられたパターンのうち、いくつかの要素を組み替え、それまでとは異なる傾向の遊びへと向かう方向性」であり、もうひとつは、「B.与えられたパターンの規則を守りつつ、それをより複雑化・高度化する方向性」(*6)である。

 高橋は前者を「A.ゲームの変容(transformation)」、後者を「B.ゲームの再設計(re-design)」と呼んでいるが、『ローズ・トゥ・ロード』における「逸脱」については、とりわけ前者の「ゲームの変容」を物語論(ナラトロジー)の立場から再構成したものだと言えるだろう(*7)。

 『ローズ・トゥ・ロード』には言葉を「変容」させるためのヒントが散りばめられている。同音語・対義語や擬音語、ひいては地口などを撚りあわせ、少しずつ手繰り寄せていくことで、言葉そのものの「変容」に主眼が置かれたものとなっているというわけだ。

 この過程を物語論の伝統から理解し直すにあたって参考になるのは、ジャンニ・ロダーリが『ファンタジーの文法』において「池に落とした石」のアナロジーで語るような、言葉を介した想像力の拡散のモデルである。


 
 池に石を落とすと同心円の波が起きる。
(中略)
 ことばもまた同じことであり、何かのひょうしに精神(こころ)の中に投じられると、表層の波と深層の波を生み出し、無限につながった一連の反応をよびさます。ことばは落下しながら、音とイメージを、類推と追憶を、意味あるものと夢人を巻き込み、経験と記憶、ファンタジーと潜在意識とにかかわる運動へと変わる。この運動がなかなか複雑であるのは、精神自体がその運動の表出にただ脇役をつとめているのではなく、受け入れたり拒んだりすること、他と結びつけたり検閲したりすること、作り上げたり破壊したりすることを通じて、たえず介入しているからである。

 −−ジャンニ・ロダーリ『ファンタジーの文法 物語創作法入門』窪田富男訳、ちくま文庫、P.22。



ファンタジーの文法―物語創作法入門 (ちくま文庫)

ファンタジーの文法―物語創作法入門 (ちくま文庫)

  • 作者: ジャンニ・ロダーリ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1990/09
  • メディア: 文庫





 かように連鎖的な言葉の広がりに加え、『ローズ・トゥ・ロード』における「変容」は「規則」の根幹部分にも大きな影響を与えている。

 ある者が提示した言葉の語幹(*8)を、別の言葉を修飾するための母体として変容させること。それが「言葉決め」と呼ばれる『ローズ・トゥ・ロード』の最も重要な「規則」となっている。
 そして面白いのは、この「言葉決め」の際には『ローズ・トゥ・ロード』本体のみならず、積極的に外部のテクストから言葉を導入することが公に推奨されている点だ。

 ゲームとしてみれば、こうした外部テクストの参照性は−−おどろおどろしい「物語」を作りたい時にはホラー小説から言葉を借り、「物語」に躍動感をもたらしたいのであればアクション小説から言葉を借りるといったように−−生み出される「物語」の色調を、ある程度コントロールできるようになる優れたギミックとして理解できる。あるいは、『ローズ・トゥ・ロード』に盛り込まれている情報を拡張させる、一種の拡張パックとして外部テクストが割り当てられていると見ることも可能だろう。

 ただし、このギミックを物語論の立場から捉え返せば、この様式は『ローズ・トゥ・ロード』が間テクスト性を「規則」の中にあらかじめ設定した、特異な「遊戯」と見えることもできるのではなかろうか。本稿ではこの観点から考えを進める。


●意味づけの終着点

 『ローズ・トゥ・ロード』においては複数の参加者たちが、相互に言葉を交換し合うこと−−相互干渉性(インタラクティヴィティ)−−がプレイの前提となっている。こうした相互干渉性によって引き起こされることは、自らの言葉が「他者」によって別な意味を与えられるという「意味づけ」だ(*9)。むろん単独でも「もの語る」ことは可能だが、その場合においても創造された「物語」は、絶えず内なる「他者」による「意味づけ」を必要としている。すなわち言葉の「変容」に伴い、否が応にも参入してくる「他者」による「意味づけ」を、『ローズ・トゥ・ロード』では外部のテクストへの参照性を導入することで乗り越えようと試みているというわけだ。

 ただし『ローズ・トゥ・ロード』の終着点は、物語論の参照する地平−−例えばロダーリの提示した地平とはまるで異なる。ロダーリの『ファンタジーの文法』は、彼自身がノヴァーリスの言葉を借りて述べた「論理学のように、ファンタジー学」(*10)といった文句のように、ファンタジーと体系性という相反する要素を両立させようとした試みだった。

 そこでは、言葉の使い手(あるいは読み手)が、言葉と想像力のあり方を探究しなおすことで、言葉と自己、そして世界を見つめ直し、精神的な成長を遂げるという認知-学習の過程が期待されている。その意味で『ファンタジーの文法』は物語論を介した教育の書ということができるかもしれない。

 対して『ローズ・トゥ・ロード』は、ロダーリの言うような成長の過程に加えて、成長の過程で取り入れた言葉をフィードバックすることによる世界の変容(への期待)そのものをも視野に入れた、いわば祈りの書であると言ってよいだろう。

 『ローズ・トゥ・ロード』における参加者は、原則的に逍遥舞人−−アムンマルバンダ−−と呼ばれる存在の役割を受け持つことになる。彼らは言葉を変容させる能力を持つ存在だが、自ら「もの語った」旅程を終えるたびごとに、自らが宿した言葉を解放し、その解放した自分自身に「透色(すきいろ)」を融け合わせる。

 そして彼らが宿した言葉は彼らが旅した世界の風景へと映し出され、その結果もとの自己は少しずつ風のように透けていく。そして彼らが見出した真の自己は、通り過ぎた世界そのものと化していく。

 すなわち「言葉」を介して取り込まれた「他者」には新たな「意味づけ」が与えられ、代わりに与えた自分自身は、浄化された世界そのものと一になるわけだ。

 近代の西洋美学の立役者の一人であるフリードリヒ・シュレーゲルは、精神の内に無限なものを見出す観念論哲学と、その無限なもの([端的に解き明かしえないもの])を想像力と感情の働きによって自然の形象を用いて表現しようとする実在論的文学、これら両者を統合したものを「新しい神話」と呼んだ(*11)。

 しかし『ローズ・トゥ・ロード』の終着点は、シュレーゲルの言うような観念論哲学と自然の形象が融合が融合した「新しい神話」を志向しながら、かつ言語という媒介物が本質的に志向する、ロゴス中心主義を脱構築(ジャック・デリダ)するという意味で特異なものだ。ロゴス中心主義とは、認識の果てに真理を追及するという姿勢を指すが、それこそデカルト以降の西洋の哲学史の伝統において、真理はいわば近代的な「自我」との関わりにおいて考えられてきた。この点について、『ローズ・トゥ・ロード』のデザイナー、門倉直人はいかに考えていたのか。

 ひとつのヒントとしては、「忘れること」が挙げられる。この「忘れること」とは、おそらく近代的な「自我」を「忘れること」にほかならない。『ローズ・トゥ・ロード』を構想中の門倉直人が鈴木銀一郎と小林正親との対談において語った、コンセプトの部分を見てみよう(後に触れるが、引用部で登場する『ローズ・トゥ・ロード』における魔法とは、世界における「自我」の投影にほかならない)。

 例えば、魔法を忘れたら、忘れたでおしまい。というのが今までのゲームだったんですけど。これは、忘れることに重要な意味があるとする。その忘れたことに意味を持たせることをシステムとして作っていきたいなと考えています。魔法に限らず、想い出とか、記憶のなかの風景、過去の出来事、そういうものを入れていくと、ユルセルーム(引用者注:『ローズ・トゥ・ロード』の背景世界)っぽくなっていくんですけど。自分が大事にしていた想い出なんだけど、それを忘れてしまった。忘れたら、それでおしまい、ではなくて、忘れたという、その空白の隙間に重要な意味がある。

 −−「R・P・G」1号、「ゲームデザイナー対談:ぼくらは、お話のなかに生きている」、国際通信社、2007年、P.151。


●空白の隙間

 「忘れたという、その空白の隙間」とは何か。それを考えるためには、もう少しパースペクティヴを広げる必要性があるのかもしれない。

 門倉直人は1984年に日本初のオリジナルファンタジーRPG『ローズ・トゥ・ロード』の最初のヴァージョンを発売し(*12)、その後はRPGのデザインを仕事の重要な柱に据えながら、小説やゲームブックやコラムの執筆、コンピュータゲームのデザイン、大規模なネットワークゲームの運営など、寡作ながら多角的、常に最先端で活動を続けてきた人物だ。2011年春には「もの語り遊戯」としての『ローズ・トゥ・ロード』の成立に多大な影響を与えるとともに、門倉直人のここ2000年代以降の年の仕事の集大成とも言える「魔法イメージ探訪記」(「Role&Roll」連載)というコラムの単行本化が予定されている(単行本化に伴い、表題は変更される予定)。

 フリードリヒ・シュレーゲルは「イデーエン」において、「いかなる芸術家もただ一人で、芸術家の中の芸術家、中央芸術家、他のすべての芸術家の総裁(Künstler der Künstler, Zentral-Künstler, Direktor aller übrigen)であるべきではない。全ての芸術家が同じ程度に、どの芸術家も自分の立場からそうあるべきだ」と告げている(*13)が、およそ現代日本の書き手の中で、とりわけ言語にこだわりながら、言語とあまり関係がないと往々にして思われがちなゲームという分野へコミットを続けたその越境的な姿勢において、門倉直人ほど、このシュレーゲルの芸術家観が見合う書き手も少ないだろう。

 シュレーゲルは「文学についての会話」の中で、「新しい神話」は、「孤立した人間」によって作られるのではなく、「精神的な息吹」に結び合わされた友人たちの共同作業によって実現されるべきだとされている。この共同作業とは、「一人の師匠が指導する竜はではなく芸術家たちが相互に教えあい学びあう対等な関係であるべきで、個々の芸術家には自己の「個性」と「独創性」を最大限発揮することが求められる」と述べているが、おそらく門倉直人も、共同作業によって実現される「新しい神話」を夢見ていたに違いない。

 いわば彼はゲームデザインを通じ、共同作業としての「新しい神話」の形成こそを志向していたのだろう。だからこそ、彼の作品は良い意味で未完成であり、常に「隙間」が「他者」へ向かって開かれている。1984年、門倉直人の創作活動の出発点である、『ローズ・トゥ・ロード』の初版に記されたデザイナーズノートには、すでにそのような姿勢が明言されていた。


 厳密な意味で、ゲームデザイナーは、今、これを呼んでいる皆さんで、私はただRPGのヒントを与えたにすぎない。正直言って、RPGの紹介者に毛の生えた様なものなのである。私が願うのは、この本を読んだ諸氏が、自分の本当に楽しめるファンタジーの世界、指輪物語あり、ゲド戦記ありの世界をRPGで探検できると感じていただくことである。

 −−『ローズ・トゥ・ロード』デザイナーズノート(引用は2002年版に再録されたもののP.204によった)


 筆者が考えるに、こうした「隙間」が「他者」として開かれていることに、門倉直人の捉え難さの一端があるように思われる。特に「もの語り遊戯」を遊ぶ過程は常に流動的であり、その動的な流れをモデルとして規格化するのは難しい(*14)。それゆえここでは「もの語り遊戯」をプレイして創られる「物語」のひとつのモデルとして機能するであろう、『ローズ・トゥ・ロード』と共通する背景世界を舞台にした門倉直人の散文を見てみたい。


●「ホシホタルの夜祭り」

 まずは門倉直人が今までに(商業誌、ファンジンともに)発表した(ほぼ)唯一の小説で、「RPGマガジン」(ホビージャパン)1990年7月号に掲載された、現在は有志の手によってHTML化が施され、こうしてウェブ上での閲覧が可能になっている「ホシホタルの夜祭り」を検討しよう。

 門倉直人「ホシホタルの夜祭り」


 一読すれば明らかな通り、「ホシホタルの夜祭り」は、J・R・R・トールキンの『指輪物語』、アーシュラ・K・ル=グィンの『ゲド戦記』、C・S・ルイスの『ナルニア国ものがたり』、さらにはピーター・S・ビーグルの『最後のユニコーン』など、モダン・ファンタジーを代表する傑作群にも共通する雰囲気(フレーバー)を有した作品だ。あるいは『ユートピアだより』のウィリアム・モリス、『ペガーナの神々』のロード・ダンセイニ、あるいは『金の鍵』のジョージ・マクドナルドなど、主に19世紀後半から20世紀中盤にかけてに活躍したエピック・ファンタジーの作品にまで、遡ることができるかもしれない。

 しかしいずれにせよ、「僕がその老人を初めて見たのは、苦渋に満ちた学問の旅を終え、故郷に帰った朝だった」という書き出しで始まるこの「物語」は、おそらく作品世界においてはすでに若くないであろう語り手が、「落伍者」として故郷に戻ってきたところからその「語り」を開始している。

 ここでトールキンの『指輪物語』の幕開けとなった『ホビットの冒険』が「行きて帰りし物語」だったことを想起すれば、この「物語」は「行きて」の部分が語られないということがわかる。「語り」の始まる以前から、主人公は出発を果たしており、その旅路で絶望し、帰路についた。そして故郷の村へ到着し、とある老人と出逢うこととなるわけだ。

 「ホシホタルの夜祭り」を読み終えた方ならばお判りの通り、ここで登場するのが「老人」なのには意味がある。語り手が生きる地平は、老人から見ると「語り直された」ものにほかならないのだ。ここでは時間軸が意図して撹乱され、語り手と「老人」は合わせ鏡のように無限の反復を繰り返すこととなる。

 このことがいかなる機能を有しているのかを知るためには、間テクスト性から離れ、「ホシホタルの夜祭り」の背景世界(それは当然『ローズ・トゥ・ロード』の背景世界でもあるが)を確認しなければならないだろう。


●“薄暗がりの時代”

 作中でも語られる通り、「ホシホタルの夜祭り」は“薄暗がりの時代”を舞台にしている。この小説の背景となっているのは、ユルセルームと名付けられた架空世界だ。

 ユルセルームは門倉直人によって紡ぎ出され、無数の続く語り手を生み出し、今も多くの後継者によって語り継がれ(*15)、(著作権は門倉直人に属するものの)事実上、一種のシェアード・ワールドとなっている。そしてこの“薄暗がりの時代”とは、ユルセルーム世界の因果律を表す重要な要因としての魔法という要素が、死すべき定めの人の子らとは遠くかけ離れてしまった時代のことを意味している。

 四つの王国が事実上の分割統治を行なっていた時代を離れ、ユルセルーム世界に「大いなる忘却の呪縛」が訪れた。人の子らは軒並み忘却の眠りにつき(*16)、その後の“大暗黒期”を経た上で、世界が虚無に呑み込まれるのか、それとも遥かな黎明へ向かって徐々に光を取り戻しつつあるのか。
 その端境(はざかい)にあるのが“薄暗がりの時代”にほかならない。

 ここでひとつ考えてみよう。“薄暗がりの時代”とは、何らかの隠喩(メタファー)なのだろうか。

 ファンタジーの多くは、その色調に隠喩を含有している。『ゲド戦記』の第1巻『影との戦い』に登場する「影」が何だったのか、いまいちど、想起してもよいかもしれない。そして「ホシホタルの夜祭り」は「癒し」が重要なモティーフとなっている。かつて、とある思想家は「隠喩としての病い」について語ったが隠喩としての「癒し」が、現代のSFでも極めて重要な意味性を帯びている。

 現代SFを代表する傑作、伊藤計劃の『ハーモニー』において、登場する固有名詞の多くは「癒し」と病とに関係した、ケルト神話に登場する面々のそれが意図的に被せられている。

 ダーナ神族の王にあたるヌァザは、「モイ・トゥラの戦い」と呼ばれる二度の大戦における奮闘で知られた。かつてエリン(アイルランド)の地を治めていたトゥアハ・デ・ダナーンの医療神ディアン・ケトの息子の名前はミァハと言った。ディアン・ケトの息子であって魔王バロールの娘をめとり、彼女との間に光明神ルーをもうけたキアンもまた、戦いや魔術のみならず、優れた鍛冶の力や医療の力を有していた。

 『ハーモニー』においては、こうしたケルト神話の神々が突如暴発させる理不尽なまでの暴力性と、アーキテクチャによる管理が人々の実存を縛り付けるほどにまで徹底された社会とが対比的に描かれたが(*17)、翻って考えれば「ホシホタルの夜祭り」に登場する「癒し」は、それ自体として自律し、言うならば作品内で閉じられているように見える。だが、ここでの見えるというのが難物である。いかに完成した幻想世界であっても、それが現実から純粋に自律するということはありえないからだ。

 トールキンがファンタジーの効能として総体的な癒し「回復、逃避、慰め」があると語ったように(*18)、仮に想像力によって仮構された世界が逃避のためのものであれば、それはどこまでも自己の内側で、ともすれば自閉的なまでに完結している必要がある。

 現に、多くの作家は執筆活動を通し、物狂おしいまでにそうした自律性を希求してきた。ファンタジーやロマン派から遠く離れても、レーモン・ルーセルのように、私たちが日常において使用する言語を徹底して組み換えそれらを自律させることで、言語=世界を認識する主体のあり方に到るまで、変容を試みた書き手は歴史上、常に存在してきている。


●“準創造”と自律した言語

 門倉直人が言葉を重視したのは、言葉によって隠喩を越えた神話を紡ぎ出す必要があったからだ。言葉こそが、世界を創り出す。門倉直人の作品の外郭を規定する重要な役割を担ったと言ってよいトールキンもまた、このダブル・バインドに極めて自覚的な書き手であった。

 だからこそトールキンは、自らの創作姿勢を“準創造(Sub-creaition)”と呼び慣わし、さながら『旧約聖書』においてヤーヴェが「言葉」から世界を紡いだように独自の言語を紡ぎ出し、そこから壮大な神話世界を構築していったのではなかろうか。

 トールキンは講演録『妖精物語について』において、妖精物語とカトリシズムの歴史に絡め、自己の創作姿勢を率直に語っているが、トールキンの言葉が有する含蓄を捉え損なうと、たちまち陥穽へと落とし込まれることになる。そこで今回は優れた導き手として、トールキン直々に薫陶を受けた語り手、猪熊葉子がどのように“凖創造”を捉えたのかを見てみよう。

 第一の世界(訳注:現実)は神の創造されたものでありますからこの世界に「真実」が存在することはあきらかです。しかし、この第一の世界においては、それは常に人の目にあきらかに見えるような姿で存在してはいません。
 人間の「空想」が「準創造」する第二の世界は、すべてのものの「真実」の姿−−それは又すべてのもののあるべき姿にほかなりませんが−−をまざまざと目にみえるものとして形象する世界なのです。この意味において、第二の世界は表面的にはいかに非現実的にみえようとも、「嘘」ではなく「まこと」であり、第二の世界に入っていくことは、世間で常識的に考えられているように、悪しき意味の逃避ではなく、第一の世界から遠く離れながら、かえって、それを新鮮な目で見直し、その価値を再発見させる働きをします。
(中略)
 トーキン(引用者注:トールキン)の考えからすれば、人間の「凖創造」の行為は、人間が神の創造のわざに参与する独得な方法のひとつであるといえましょう。そして人間が人間である限り、人間はこの「準創造」の行為をくりかえし、そのなかに神の偉大な創造のわざを反映し、さらにそれを豊かなものにしていくのです。ここに「妖精物語」が今日なお意味を失わない理由があります。トーキンが「指輪物語」を「準創造」することの意味も又そこに見出されます。「指輪物語」は、まさに近代の「妖精物語」なのです。

 −−J・R・R・トーキン『ファンタジーの世界−−妖精物語について』猪熊葉子訳、福音館書店、1973年、P.173〜176。


 そしてここでの“凖創造”と呼ばれる行為を、おそらくトールキンは言語の創造から出発した。トールキンの創作言語については複数の研究書が存在しているが(*19)、創造する行為そのものがトールキンにとってどのような位置づけにあったかという点については、トールキン研究者の赤井敏夫の『トールキン神話の世界』で真摯な考察がなされている。そこではトールキンにとっての言語体系と神話体系が不可分の関係にあるということが、トールキン自身の言葉を通して示唆されている。

 これは極論かも知れないが、わたしは次のような見解を提唱したい。すなわち、芸術としての言語を完璧に構成するには、それに付随する神話体系を少なくとも概略だけでも構築しておくことが必要であると。その理由は、韻文による作品は不可避的に(ある程度)完成された神話構造の一部となるからばかりではなく、言語の作成と神話創造とは互いに関連した機能であるためである。個人的な言語に独自の色彩を付与するためには、その中に独自の神話の意図が織り込まれていなければならない。それが個性的であるのは、人間に本来具わった神話創造能力の枠組の中で機能するからであり、個人的な言語が人間の音韻論的限界、もしくは印欧語の音韻的範囲内においてのみ個性的であり得るのと同断である。そしてまたこの逆も真実である。個人的な言語がひとつの神話体系を生み出すこともあるだろう。

 −−トールキン“ON FAIRY STORIES”、赤井敏夫訳、訳文は赤井敏夫『トールキン神話の世界』、人文書院、1994、P.41。


 芸術として自律した言語は、それ自体が独自の神話構造を帯びなければならない。だがしかし、独自の神話構造が表象する「神話素」(クロード・レヴィ=ストロース)が、私たちの暮らす日常的な現実から立ち上がってきた別種の神話と交錯してしまう機会は十分に考えられることだろう。

 現にJessica M.Neyの『ミドルアース言語ガイド』では、トールキンが創造した(広義の)のエルフ語のうち、シンダール語とクウェンヤ語に関しては、(トールキンの創造世界における)共通の古代言語に属していると語られる。一方で伊藤盡は、1000年頃の『サクソン族の医学書』第2巻、聖書の『ユディト書』、『ベーオウルフ』らを爪弾き、「エルフ語」の基板となる「エルフ」という存在の起源を探求している(*20)。

 そして門倉直人はユルセルーム独自の言語を構想していたようで、作品中の随所にその言葉は登場するものの、決して大系だってその文法を明示しなかったのは、個人的な言語と神話体系の関係性を、開かれたものにする必要があると考えたからではなかろうか。だからこそ、門倉直人はむしろ言語と神話体系の「隙間」をこそ重視するのだ。


●〈マジックイメージ〉と内宇宙(イナー・スペース)

 この「隙間」と言語、神話を繋ぐものは、門倉直人にとっての「魔法」である。「ホシホタルの夜祭り」において語り手が“薬医”から、より高次の階梯である“呪医”へと這い上がろうとし、そこで無惨な失敗を遂げたことを思い出そう。彼には「知識はあった」。しかし、「魔法のイメージを感じ、これを組み立てて用いることができなかった」と語られるのだ。

 魔法を使うためにはイメージを組み立てて活用する必要があるらしい。だが魔法のイメージとは、いかなるものか。この「イメージとしての魔法」が具体化されたことがユルセルームを特徴づける重要な要因であり、「ホシホタルの夜祭り」においても、魔法は観念的な「イメージ」が、具体的な形をとったものとして実際に立ち現れる。

−− 落下し、その身をよじるたくさんの蝶……。やがて、それらはつながり合わさってまだら模様の鎖へと変化した。鎖はのたうちながら、こんがらがって固まり、口から泡を吹いて暴れる狂犬へと姿を変えた。
−− こっちだ。僕はイメージの現われた方へと歩き始めた。夜とはいえ、もう夏なのに、身体にぞくぞくと鳥肌が立つ。 −− しかし歩みを止めるわけにはいかない。僕は心の中にあるイメージを喚起しようと努力した。 −− 金……、金色の炎……。心の中にそれっぽいイメージが浮かびそうになるが、遠かったり近かったり、あるいは一瞬の内に通り過ぎたり、なかなか固定しようとしない。
−− このようなときは呼んでやらねばならない……。
「ファ……、ニム・ファ! ネファー!」
 うまいぐあいにイメージが固定した。すぐさま、この心的イメージを手にした杖の先端に集中させ、解放する。
−− 杖の先に、小さな橙色の光が現れた。 −−


 これが「ホシホタルの夜祭り」に登場する魔法のイメージだ。蝶、まだら模様の鎖、狂犬、金色の炎、それらにはすべて“薄暗がりの時代”の因果律を象徴するような各々の意味性を有している。

 ここでの意味性は「ホシホタルの夜祭り」という短編の内部にのみ閉じられたものではなく、門倉直人の生み出した架空世界ユルセルームの世界の因果律を象徴する、文字通りのシンボルとして現れている。それが魔法のイメージ=〈マジックイメージ〉なのだ。ユルセルーム世界における無意識は、その多くが〈マジックイメージ〉として具体化・具現化され、操作の対象となる。〈マジックイメージ〉を介して主体と世界は結びつき、主体〈マジックイメージ〉の操作を通じ、世界と自己の関係を撹乱させるのだ。

 門倉直人との署名がなされ商業媒体で発表された書物のうち、〈マジックイメージ〉が言及された最初の作品は、『魔法使いディノン1 失われた体』(ハヤカワ文庫ゲームブック、1987、以下『失われた体』)であろう。


魔法使いディノン〈1〉失われた体 (ハヤカワ文庫GB)

魔法使いディノン〈1〉失われた体 (ハヤカワ文庫GB)

  • 作者: 門倉 直人
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1987/02
  • メディア: 文庫





 『失われた体』は小説ではない。ゲームブックという表現ジャンルを選択している。ゲームブックとは、ひとつの「物語」を「パラグラフ」という大きな括り(必ずしも「段落」を指すわけではない)ごとに分割し、無作為に並び替えたものである。そのため、最初から順番に読んでも意味がない。パラグラフには通し番号が振られているので、読んだパラグラフの指示に従って特定の番号へ進めば、話が数珠繋ぎのようにひとつの意味を形成するようになっている。そうした読者による参与性こそが、「ゲームブック」という名の由来となっていることは間違いないだろう。

 この方法が画期的だったのは、小説ではなしえない複数的な物語性を実現したことだ。すなわち、ゲームブックにおけるパラグラフの連結は多様であり、リンクの仕方によってまったく別な展開が生まれる。1→2と「物語」が進んで、次に指示される分岐を3に進むか4へ行くかによって、まるで異なる展開を見せるのがゲームブックならではの魅力である。

 しかしながら優れたゲームブックの多くは、こうした複数の選択肢の提示による意志決定の妙のほかに、もう一つ異なる位相から、「物語」を補強するための要因が存在する。それはゲームの「規則」だ。『失われた体』の場合、「物語」の世界を統御する重要な要因としては〈マジックイメージ〉という「規則」の存在が該当する。『失われた体』における「規則」の多くは〈マジックイメージ〉のそれに割かれている。〈マジックイメージ〉を解釈し、時に状況を変革するためにどのように解放するのか、読者は常に選択を迫られることになる。パラグラフ選択とルールシステムの相互作用によって『失われた体』における読者のコミットメントは、いわば立体性を有したものとなるというわけだ。

 だが読者は、『失われた体』において、作品に対してメタレベルに立ち、いわば神々の立場から選択を行なうわけではまったくない。他の多くのゲームブックと同じく、読み手は「物語」の主人公である「君」として、作品世界を能動的に変革させる存在としての立場を余儀なくされることとなる(*21)。読者はそれを認めるか、さもなければ最初から本を閉じて立ち去るしかない、というわけだ。

 『失われた体』において、「君」は現実世界から召喚され、別の魔法使いによって、これまでの肉体を交換された存在として描かれる。これ自体は特に珍しい展開ではない。けれども『失われた体』の展開は、あくまでも舞台であるベレヌ・アムルの村、周辺に留まっている。
 その背景となる舞台であるユルセルーム世界は、南北3500キロメートル、東西4000キロメートル
に渡るユルセルーム大陸と、その周辺諸島のことを指しており(*22)、各々の地方に詳細なる設定があり、それらも商業媒体において発表されているにもかかわらず、『失われた体』は極めて限定された地域を舞台している。

 なぜ舞台が限定されたのか。スティーヴ・ジャクソンの『ソーサリー』四部作、イアン・リビングストンの『雪の魔女の洞窟』や『恐怖の神殿』のように、迷宮と野外の冒険を組み合わせ、さながら壮大なアドベンチャー・ムービーのように旅をするゲームブックも存在し人気を集めている。だが、『失われた体』はそうした方法を採用してはいない。そこには何かしらの意味があると見てよいだろう。

 『失われた体』においては、冒険といっても「君」の内的世界の探究がその主題となっている。「物語」の途中から、舞台はユルセルームから〈深遠なる国〉という、『ゲド戦記』の第3巻『さいはての島へ』に登場する「死者の国」を想起させる世界に舞台は移行するが、この世界において、〈マジックイメージ〉はユルセルーム世界よりもさらに明確な意味性を帯び、人間の内的な世界との結びつきを、いっそう強く指し示すものとなる。

 ここからわかることは、門倉直人が『失われた体』において、内宇宙(イナー・スペース)(J・G・バラード)の探究を主題としているということだ。内宇宙への沈潜が要求するのは、自己と世界の関係性を再整理することである。

 しかし内宇宙への沈潜が求めるものは、サルトルやカミュが追究した「実存」に近いものと見るべきだろうか。私は、実存主義の作品群よりも、バラードが敬意を払って作品に触れたというアラン・ロブ=グリエの思想にこそ、内宇宙への沈潜が志向する実態は近しいものがあると考えている。
 
 二度の大戦を経てその無力さを浮き彫りにした19世紀的な価値観と、あくまで19世紀的な価値観を引き摺った上に積み上げられた形式的な冒険とが打ち立てた伽藍は、ロブ=グリエの見た世界においては、見事に瓦解し崩れ落ちてしまっていた。だからロブ=グリエらは否応なしに、核たるものを失った自己と、非情さを剥き出しにした社会とが、どのように関わって行くべきなのかを、生存に関わる深刻な問題として考えざるを得なかったのである。そこでロブ=グリエが採用した苦肉の策は小説内の描写方法から内面の規定を廃し「視線」に注目することで、世界の唯物性を浮き彫りにして見せるというやり方だった。

 私の視線の相対的な主観性が、まさしく私に、世界における自分の地位を決定するのに役立ってくる。私はただ、自分から、この地位を隷従に変えるのに協力することを避けるだけである。

 −−アラン・ロブ=グリエ「自然・ヒューマニズム・悲劇」、『新しい小説のために』所収、平岡篤頼訳、1967年、P.84。


 ここでロブ=グリエが「視線」を通して模索した「世界における自分の地位を決定する」方策は『失われた体』が目指した方法論とリンクするのではなかろうか。このように考えれば、門倉直人の方法論は、単なる実存主義の反復たる弊を乗り越えることができるだろう。

 最終的にいかなる決断を下すかによって、『失われた体』の結末は異なるものとなっている。続篇『闇と炎の狩人』においてはいっそうに顕著だ(「闇と炎」は、ユルセルームにおいては「人間性」のことを意味するのである)。しかし、ここでいかなる選択を行なおうとも、生まれた「物語」は「ホシホタルの夜祭り」の結末と、奇妙な照応を見せることになる。そこで設定されるのは「意味のある偶然」であり、「意味のある偶然」として「君」=読み手は新たな「自我」のあり方を知ることとなる。

「わしは今、自分の名前を思い出した。 −− 決して忘れようとしたわけではなかったが、しかし、今、思い出した。“ホシホタル”、それがわしの名じゃ、 −− もちろん、ただの偶然じゃが……」
「意味のある偶然……」
 だんだんと熱くなった僕の目は、もはや老人の姿を、はっきりととらえられなくなっていた。老人は自分の杖に残った最後の枝 −− 若葉の生えた枝 −− を折り、これを僕に差し出して微笑んだ。
「 −− そうじゃ。故に、わしはおまえにさらばとは言わん。しかし、ごきげんよう! つつがなく行かれよ! 魔法は、より小さく、そして、より大きくあらしめられるものならば……」
 老人は目を閉じ、そして二度と開かれることは無かった。


 彼は「意味のある偶然」として、真の自己を識った。つまり〈マジックイメージ〉の正しき活用法を「想起」することによって、みごと“想医”という位階にまで、自らを上昇せしめたのだ。こうして「ホシホタルの夜祭り」の“薬医”-“呪医”-“僧医”へ至る階梯と、『失われた体』でおいて「君」が「自己」を見出すことの相関関係が明らかになった。その後、門倉直人は「魔法イメージ探訪記」において、〈マジックイメージ〉で定義された数々のシンボルを、いまいちど言葉の領域へ引き戻そうと試みてきた。とすると、「ホシホタルの夜祭り」や『失われた体』で示された階梯とその照応は、『ローズ・トゥ・ロード』の「規則」として、そのあちこちに「宝石が散りばめられている」(鈴木銀一郎)ような形で埋めこまれているのではなかろうか。そして冒頭で語ったような『ローズ・トゥ・ロード』の表紙が誘うものは、かような方向性だと言えるのではなかろうか。

 『ローズ・トゥ・ロード』で生成される「物語」のモデルの一つとして「ホシホタルの夜祭り」や『失われた体』を見た場合、「空白の隙間」で行なわれることを期待されていた重要な作用として、こうした「他者」としての「自我」との出逢いを挙げることができるだろう。そうした過程を経て初めて、近代的な「自我」を忘れ去ることは可能になり、[透色]を受け入れる準備ができる。世界が少しずつ浄化される−−かもしれない−−その萌芽が見えてくる。

 アンブローズ・ビアースは自ら編纂した英語辞書の「辞書編纂者(lexicographer)の項目に「言葉に定義を与えることで、言葉の持つ可能性をそぎ落とす者」としたが(*23)、ビアースの言う「定義を与えること」と「可能性をそぎ落とすこと」。すなわち言葉に意味を与えることと、「意味づけ」を「忘れる」ことのあわいを彷徨い、目眩いがするようなその道程を楽しみ、可能ならば合間合間に垣間見える真空に言葉を与え、その言葉を、ひいては言葉を発する者たちの思考を、彼らが向き合う世界をも含めた形で「変容」させること。そしてその行為が、信頼できる仲間とともに行なわれること。

 こうした「変容」の過程がいずれ無意識の底に沈み、世界の変化そのものが忘れ去られ、『ローズ・トゥ・ロード』という書物の目指したものが特異な「規則」ではなく、言葉から創造性を引き出すひとつの法則となりえた時……『ローズ・トゥ・ロード』は、そして門倉直人は、また新たな階梯へと一歩踏み出すこととなるだろう。


●After Session, One Question

 トールキンに出会ったときぼくはお願いするのだ。
「あなたの“準創造”の秘密を教えてください」
 すると、教授はだまって一冊の本を差しだす。ぼくはひったくるようにその本を手に取り、ページをめくり始める。とたんに困惑する。
「なにも書かれていません。すべて白紙じゃないですか!」
 そしておそらく(パイプタバコをくゆらせながら)教授はやさしくこう告げるのだろう。
「言葉を記しなさい。あなたの言葉を」
 突如、星のない空と果てしなく広がる空虚な空間にぼくは放りだされる。不安でさびしくていたたまれなくなって挫けそうで、もう笑うしかない。考えるだけでもおそろしい事実を突きつけられた。
 ぼくがこれまで『物語』だと信じていたものは所詮773人目の神様を作りだす行為にすぎなかったこと。そしてぼくがこのさきその呪縛から逃れられる保証もないこと。
 いまなら世界を創造した神様の気持ちがわかるような気がする。半ばヤケクソだったんじゃないかと。
「光あれ」だと? 
 やれるというのか? このぼくに?
 これならいっそ地獄に落ちてメフィストとダンスを踊りながらベルチ・ザ・バーバリアンの同人誌でも作ったほうが幸せなんじゃないかとさえ思えてくる。
 チクショウ!
 手が、震える。

  −−仲知喜「no road」(「Tales of the Dragon's Tail」)(http://d.hatena.ne.jp/nacky7/20100328#p3)より、引用にあたって一部改変。


 ここで問われている問題を考えてみよう。あなたがトールキンに会うことができたとする。そうしたら、あなたはなんと尋ねる?

 仮に「あなたの“準創造”の秘密を教えてください」と頼んだとしたら、すべて白紙の本を渡されたとしたら、あなたはあなた自身の言葉として、一体何を記すことになるだろう?

 果てしない空虚に落とし込まれ、虚無に飲み込まれないためには、言葉を記すほかなかったとしたら? いったいどのような言葉を記すのだろう? 真空の中で、向き合う対象が自分しかなく、進み行く階梯がすべて合わせ鏡のように続く「自己」の無限の反芻に終わってしまうのだとしたら?

 いずれにしても、書く手立てとしてばかりでなく、考える手だてとしてぼくに与えられているらしい言語は、ラテン語でもなければ英語でもなく、イタリア語でもなければスペイン語でもなく、単語の一つすらぼくには未知の言語ですが、その言葉を用いて物いわぬ事物がぼくに語りかけ、その言語によってぼくは、いつの日か墓に横たわる時、ある未知の裁き手の前で申しひらきをすることになるだろうと思うのです。

 −−フーゴー・フォン・ホーフマンスタール『チャンドス卿の手紙』、川村二郎訳、講談社文芸文庫、1997年、P.25。


 跪き、申し開きをするのではなく、ホシホタルのように真空を照らし出すための「規則」。それを門倉直人は模索してきたのではなかろうか?

 世界がこのまま続いていき、もっと人間的になりうるのだと信ずるためにも、想像力は必要なのだ。今やヨハネの黙示録が盛んである。自分たちの支配に日没を見ている人びとは、世界の崩壊という鍵の中でこの日没を生きているのだ。

 −−ジャンニ・ロダーリ『ファンタジーの文法』、窪田富男訳、ちくま文庫、P.293。





【脚注】

(*1) 表紙の描写についてはウェブログ「club chain mail」におけるエントリ「ユルセルームを彷徨う」の表現を借用した部分が多い。この場を借りて厚くお礼を申し上げたい。http://d.hatena.ne.jp/polypousrace/20100402
(*2) 門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』、2010年、p.6。続く引用部はP.7。原則として、特に断りのない限り、本稿ではこの2010年版(『The Wander Roads To Lord』と呼ばれる版)を『ローズ・トゥ・ロード』として語る。なお、『ローズ・トゥ・ロード』の成立にあたっては、1974年の『ダンジョンズ&ドラゴンズ』から始まる「ロールプレイングゲーム」(RPG)の伝統が重要な影響を与えており、『ウォーハンマーRPG』などの(特に)海外のRPGが背景としている西洋の思想史・社会史とも密接な関わりを持っているのみならず、それは門倉直人自身の「遊戯」観とも密接な関わりを有している。「R・P・G」1号、「ゲームデザイナー対談:ぼくらは、お話のなかに生きている」、国際通信社、2007年、P.146を参照。なおここでは「21世紀、SF評論」の読者の理解を促すため、また『ローズ・トゥ・ロード』の特徴を明快な形で提示するため、そして論考の焦点を絞るため、あえて『ローズ・トゥ・ロード』を「もの語り遊戯」として語っている。このことはRPGとしての『ローズ・トゥ・ロード』を軽視しているわけではまったくないことを書き添えておきたい。誤解なきよう付言すれば、『ローズ・トゥ・ロード』はRPGの一種として理解するのはまったく差し支えなく、またそもそも後述する『ローズ・トゥ・ロード』の初版自体が日本のRPGにおけるパイオニア的な作品であり、『ローズ・トゥ・ロード』こそが日本のRPGの礎の一端を築いたと言っても過言ではないだろう。それに門倉直人自身、RPGと「もの語り遊戯」の境界線を厳密に設けているわけではないようにも思われる。それゆえRPGというジャンル史内での『ローズ・トゥ・ロード』の特異性については、今後の研究が期待される重要な仕事であることは言うまでもない。蛇足ながら筆者に関して言えば、RPGライターとしても活動を続けており、RPGというジャンルの特異性については、自分なりに考え、その成果を作品や実演、講演という形で発表してきてもいる。RPGの物語論的な位置づけについては、2009年7月5日のSF学講座「「ナラトロジー」×「ルドロジー」−−新たな角度からSFを再考する」において、筆者のRPG畑での仕事『アゲインスト・ジェノサイド』(狩岡源監修、岡和田晃著、新紀元社、2009年)を題材に、本稿とは重複する問題意識について考察を試みた。
(*3) Katie Salen and Eric Zimmerman, "Rules of Play: Game Design Fundamentals", (Massachusetts Institute of Technology Press, 2004), P.81、引用箇所の訳文は蔵原大による。
(*4) 『ローズ・トゥ・ロード』が実際どのように遊ばれるかについては、長月りらが『Role&Roll』Vol.70(アークライト/新紀元社、2010年)に連載している「リプレイスソング」というリプレイ(プレイ記録を読み物として整理したもの)が役に立つ。ウェブ上で読めるまとまった報告としては、東條慎生「『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた」 が参考になる。
(*5) 高橋志行「文芸批評家のためのルドロジー入門」。
(*6) 高橋志行「ロールプレイング・ゲームの批評用語」。
(*7) ここで筆者が「物語論」(ナラトロジー)と言う時、主にウラジミール・プロップの『魔法物語の研究 口承文芸学とは何か』(齋藤君子訳、講談社学術文庫、2009年)に代表されるようないわゆる「ロシア・フォルマリズム」の伝統と、ジャン・リカルドゥー『言葉と小説−−ヌーヴォー・ロマンの諸問題』(野村英夫訳、紀伊國屋書店、1969年)に代表される「ヌーヴェル・クリティーク」の伝統を、包括的な形で念頭に置いている。ただし『ローズ・トゥ・ロード』の設計コンセプト自体は、リカルドゥーが語るような言語生成によって生まれる意味の集合体というヴィジョンに近い。
(*8) ここは日本語文法で定義されるところの「語幹」より、意図して若干ずらされたものとなっているのではないかと筆者は考えている。
(*9) この過程をゲームの文法で考えるためには、前掲の「ロールプレイング・ゲームの批評用語」の「共同ゲームデザイン」を参照されたい。
(*10) 『ファンタジーの文法』P.16。
(*11) 田中均『ドイツ・ロマン主義美学』、御茶の水書房、2010年、P.188。
(*12) この初版『ローズ・トゥ・ロード』は、シミュレーションゲームや『ダンジョンズ&ドラゴンズ』など初期のロールプレイングゲームの影響が極めて色濃い。2002年にはエンターブレインから増補や改稿を加えた『ローズ・トゥ・ロード』の復刻版が発表された。また本稿で登場する「魔法」についての考察は、門倉直人の『ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード』(1989年)や、復刻版に伴うサプリメント『タトゥーノ 〜“風に絵を描く”かりそめの魔法』(門倉直人監修、小林正親著、アークライト、2003年)を外しては語れないが、本稿はあくまでも物語論的なアプローチを基体とするので、ロールプレイングゲームのシステマティックな伝統にまで踏み込む余裕はなく、別の機会を待ちたい。
(*13) 『ドイツ・ロマン主義美学』、P.170(直前の引用を含む)。
(*14) ただし高橋志行のように、RPGの動的なモデルを、パースの記号学を想定した「index-symbol」サイクルを援用しつつ思考している研究者も存在している(高橋志行×永田希「ブレインダンス・クラウドコア」、「モダン・ラヴ」所収、終わりの会、2010、P.6)。
(*15) 例えば司史生ほか『大旗戦争』、遊演体、1996年、P.185〜186「関連資料目録」を参照。
(*16) 門倉直人監修、小林正親執筆『ローズ・トゥ・ロードリプレイ ソングシーカー』、新紀元社、2006年を参照。
(*17) ケルト神話の解説は拙稿「「世界内戦」とわずかな希望−−伊藤計劃『虐殺器官』へ向き合うために」(「SFマガジン」2010年5月号)と重複する部分があるが、重要であるために改めて本稿でも言及を行なう。
(*18) J.R.R.Tolkien "ON FAIRY-STORIES" 、Edited with Notes by FUJIO AOYAMA、北星堂書店、1976年。
(*19) 伊藤盡『「指輪物語」エルフ語を読む』青春出版社、2004年、Jessica M.Ney、佐藤康弘訳、『ミドルアース言語ガイド』、ホビージャパン、1989年など。
(*20) 伊藤盡「入門! エルフ語講座」レジュメ、2009年11月17日。
(*21) トールキンはサミュエル・テイラー・コールリッジの言う「不信の自発的停止」(willing suspension of disbelief)を援用しつつ、詩的真実を自然に受容する主体と方法のあり方を模索するが("ON FAIRY-STORIES",P.36)、"ON FAIRY STORIES"での講演におけるトールキンは、そうした作為をも迂回させようとしているように見えることはきちんと指摘する必要がある。現に文学作品において二人称を主体とした作品の代表としては、ミシェル・ビュトールの『心変わり』を挙げることができるだろう。ここでの「君」という二人称という効果は読者そのものを名指すのではなく、一人称の記述と三人称の記述、その中間点を模索するものとして機能していた。その点『心変わり』と、『失われた体』などのゲームブックに登場する「君」は大きく異なる。
(*22) 門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』、エンターブレイン、2010年、P.74。
(*23) Ambrose Bierce,"Devil's Dictionary",Bungay (Penguin Books 1984) P.207f. 引用箇所の訳は古田島伸知による。
posted by 21世紀、SF評論 at 13:39| Comment(1) | TrackBack(2) | SF評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
力の入った論を大変興味深く読ませていただきました。
幾つかの点で疑問を感じましたので、トラックバックさせていただきました。
未熟なものですが、お目にとめていただければ幸いです。
Posted by xenoth at 2010年12月22日 02:38
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