2011年01月28日

極私的ゾンビ論(第一回)

環境管理的ゾンビの誕生
藤田直哉


 ゾンビに現代的な新たな意味があるのではないかと気づかされたのは、伊藤計劃の『ハーモニー』と未完の遺作『屍者の帝国』を読んでからである。『ハーモニー』の「限界」に対し、その先として書かれた『屍者の帝国』を比較してみると、色々な“寓意”が見えてくる。
 『ハーモニー』においては、「意識のない存在」と化した人類が描かれていた。しかし、それは生きているように見える。いわゆる「哲学的ゾンビ」の問題である。WatchMeという医療装置を身体に埋め込まれ、ネットに接続されたこの主体は、いわゆる環境管理型権力にコントロールされつくした主体である。この「意識」を消失した世界をユートピアと見るか、ディストピアと見るか、それは意見が分かれているところであろう。実際に、どちらの意見も耳にすることが出来る。『ハーモニー』自体は、現代における、清潔・安全志向でクリーンなものを求める「モール」的な、あるいはバラードの言う「郊外」的な感性の世界が「環境管理」される完成形を描いた作品である。
 佐々木敦は「『ハーモニー』が最終的に提示している社会像は、言ってみれば東浩紀的な意味での「動物化」の完成像みたいなものですよね」と述べている(『伊藤計劃記録』所収のインタビューより。以下同)。「環境管理型権力」とは、一望監視システムや神が「見ている」ことにより、学校で整列させたり工場で時間を守らせる「規律訓練型権力」(フーコー)の概念に対し、東浩紀が、ローレンス・レッシグの『CODE』を参照して提起した概念である。それはアーキテクチャー(建築物、物理的であれネットであれ)を利用し、本人に管理されているという意識を持たせず、規律訓練も行わなくて済むというものである。一望監視システムや神という「一つの点」を内面化した主体が「近代的人間」だとすると、東が「動物」として述べているのは、ポストモダンの主体のことである。この「人間の消失」に、多くのSFファンは、バラードの、砂浜と車輪のエピソードを思い浮かべるだろうか。そう、確かに、伊藤計劃の作品は、バラードの問題系を明瞭に意識し、それに対し、おそらくそのロマンチックな「人間の消失」の肯定的な像に対し、「環境管理」され、ネット接続されたポスト・ヒューマンが、単なる操作対象になるしかない、ということを突きつけたのだ。
『ハーモニー』の登場人物、ミァハは以下のように述べてさえいる。「未来は一言で言って『退屈』だ、未来は単に広大で従順な魂の郊外となるだろう。昔、バラードって人がそう言っていた。SF作家。そう、まさにここ。生府がみんなの命と健康をとても大事にするこの世界。わたしたちは昔の人が思い描いた未来に閉じ込められたのよ」(p30)『虐殺器官』で各地に虐殺を起こす人物もまたバラードの愛読者であった……が、その問題の検討は横に置き、実際にバラードが「郊外」をどう定義したのか見てみよう。

郊外は都市の回復ゾーンなのか、それともREM睡眠に入る前の精神状態のように、受動的でありながら想像力にあふれた精神領域への純粋な前進の一歩なのか? 手に負えない都市の身体とは異なり、郊外の身体は完全に飼い慣らされている。郊外は巨大な動物園となり、住人の身体が有毛の哺乳動物のサンプルとなっているのである(『J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド』木原善彦訳)

 伊藤計劃は『ハーモニー』を「ケータイ小説を横目でにらんでいるところはあります」と述べている。佐々木敦はその点を、「サプリメント文学っていう言い方もありますけど、サプリ的な世界観の究極を描いているわけじゃないですか」と述べている。ケータイ小説と郊外・地方的感性の繋がりは、速水健朗の『ケータイ小説的。』などで論じられているものであった。
整理するならば『ハーモニー』作品自体は、現代における、郊外=環境管理型社会を描いたものである。とはいえ、それは、格差社会的な方向からの「多様性」や「ノイズ」などの消失を問題視する感性を無視したわけではない。『ハーモニー』の世界は「たぶんこの平和な社会っていうのは、今の格差社会の延長って考えるとリアリティのない世界だと思う」と述べ、格差社会やその倫理を描く作品とは違う志向を持っていると語っている。この世界は、ユートピアとも、ディストピアとも分からない。そのような世界を「外挿法」(今ある現実の一部を拡大し誇張し現実に気づかせるというSFの技法)的に描いたスペキュラティヴ(思索的)な作品である。
 そして『ハーモニー』で突き当たった限界の「先」として、『屍者の帝国』は構想されていた。環境管理型権力の人間の操作に対し、『屍者の帝国』では格差的なリアリティの方向に一歩踏み込んでいる。死体を蘇らせ、奴隷=労働力として利用する世界が描かれているのだ。そこには、『メタルギアソリッド』で描いたような、「戦争経済」、すなわち、経済のために生命を利用するという問題系の意識もあるであろう。おそらく、この作品は、労働力とするために、生者を死人にするという経済の問題にも踏み込んだであろう。未完であることが大変惜しまれる。
 伊藤は、「物語」にも敏感である。「お決まりな展開の羅列」が圧倒的多数の支持を受ける状況に対して醒めた目線を持っている。にもかかわらず、伊藤計劃の「死」自体が、天才の夭逝という最も安易な「物語」として流通し、商業的に利用されるというその皮肉を予測し、半ば自覚的にそのフィードバック自体を、悪意でも善意でもない何か超越的な視点から、シニカルにかユーモラスにか見守っている視点が織り込まれている点に、恐るべき壮絶さを感じずにはいられない。伊藤との生前の関係をことさら強調して書かれたあまりにも感傷的で押し付けがましい原稿や、死者の意志を勝手に代弁するような言説にうんざりさせられた私たちには、そのことを伊藤自身がシニカルに笑っていると想像することすら許されているのかもしれない。
 彼が批判する「物語」とは、人間にとって基本的な思考の枠組みそのものであるとも言っていい。基本的に人間というのは、イデオロギーや世界観などを作り上げるために「物語」を利用してしまう。そして、「物語」というのは、基本的に類型的なものである。プロップの分類に拠るまでもなく、「欠落したものの回復」や「鬼を退治して宝物を得る」「世界を脅かす魔王を倒す」など、我々は先天的にか後天的にかはわからないが、ほとんど単純なパターンの物語で実際に心が動かされ、感動し、わくわくし、涙する生き物である。そしてそれが特別な体験だと思ってしまう。近代文学というのは、基本的にこの「物語」の類型化の重力に抗うことによって形成されてきたものであり、価値もまたそこにあるものとされてきた。
 この「パターン」に操作される人間というのは、「物語」がイデオロギーにも関わる以上、思想や行動にも関わってくる。自分自身の行動・思想・考え・心情と思っていたものが、操作され、刷り込まれたものである。そして自分自身がオリジナルだと思っていたら実は単なるコピー、パロディでしかない。世界をそう見る醒めた視点を想定してみるならば、その視点から見た世界は、ほとんど「実存」の存在しないゾンビたちの世界である。これはまるで、ゼロ年代に流行った批評のジャーゴン(仲間内の隠語)を振り回し、既成の世界の物の見方の枠組みの中で作品を全て了解した気になっていた僕らのようですらある――オリジナリティや創造性、自己や自由、そして実存という「感覚」や「思想」も、歴史的形成物であり、そこからの学習であることをすっかり忘却しきってしまっている。そしてそのことを肯定的な意義にまでしようとしていた――
 現代の「ゾンビ」は、そのような「環境管理型権力」にコントロールされる主体のことと考えてみてはいかがだろうか。「環境管理型権力」とは例えばgoogleでもあるし、街や建物である。ゲットーを「差別なく」分離するために、横断できない巨大な道路を作るという例などで示される、「権力の行使」と自覚しにくい権力のことである。江戸時代から川などによってそのような権力は行使されていたが、テクノロジーの進歩により、もっと微細で繊細で分かりにくい、ソフトな権力が我々を取り囲むようになってきてしまっている。伊藤の問題系は、その権力と人間との新しい関係であった。
 元々「現代ゾンビの父」、ロメロのゾンビは、ショッピングセンターに押し寄せる『ドーン・オブ・ザ・デッド』(ゾンビ映画は邦題と原題のギャップが著しいので、必要に応じて邦題と、原題のカタカナ表記を使い分けることにする)が象徴していたように、消費社会によって内面も何もない馬鹿になった中産階級消費者の象徴のような存在でもあった。伊藤計劃的ゾンビは、この消費社会的ゾンビに加えて、環境管理的ゾンビであると言えるだろう。これは、現代人の寓話そのものであると考えた方が良いのではないだろうか。
ロメロは2000年代に入って突如、ゾンビシリーズを再開している。『ランド・オブ・ザ・デッド』と『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』、それから『サバイバル・オブ・ザ・デッド』である。『ドーン・オブ・ザ・デッド』で既に、ゾンビは虐殺して遊ぶ対象とされていたが、『ランド〜』でも露骨に銃撃の的にされて遊ばれている。このゼロ年代ロメロゾンビの画期点は、ゾンビの行動の変化と、ロメロのゾンビへの肩入れである。
『ランド〜』ではなんと、ゾンビが徒党を組み、蜂起する。苦手であった水も超えていく。リーダーに率いられたゾンビたちは、集団となって蜂起して、資本の象徴のような建物を破壊し、ゲーテッドシティを壊滅させ、資本家を殺す。ここではゾンビは蜂起の主体になっている。
 さらにおぞましいのは『サバイバル〜』である。意図的に古いアメリカ映画の定型をなぞる(領地争い)この映画は、なんとゾンビの飼育と訓練に成功する。ゾンビが飼育され、家畜のようにされているのだ。そして人間を襲わないように学習させることに成功する。伊藤計劃的ゾンビまであと一歩である。そのゾンビは、人間を襲わないこと、利用できるということに特徴がある。この次にロメロが何を描くか大変興味深く見守らなければいけないのだが、ロメロが探ろうとしているのは、もはや「人間の可能性」ではない。「人間」は初めから、醜悪で自滅してエゴイズムに満ちて争いを繰り返すしかないどうしようもないものと描かれている。しかし、その「人間」と、「ゾンビ」の新たな関係が気づけないだろうか? ゾンビ的生に何某かの可能性は見出せないだろうか? ゼロ年代ロメロゾンビには、そのような真摯な模索の側面が見える。
 ロメロ的ゾンビの飼育と訓練の行き着く先――管理されきった、襲わないゾンビこそが、現代において真に恐ろしいゾンビなのではないか。生への希求を求め、死んでいることに耐えられないが故に人間を襲うゾンビのほうが、まだ「生」や「人間」への未練が存在したからマシであったとも言えるのではないか。あるいは、その「生」の記憶もなくした「実存」のないゾンビは、もはや「人間」であろうとはしないポスト・ヒューマンとして肯定的に語られるべきなのであろうか? 自分たちの生が既にそういうものであるかもしれないと自覚しつつ、僕たちが探求しなければいけないのはこの「襲わないゾンビ」の可能性と限界である。

(第二回に続く)
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posted by 21世紀、SF評論 at 01:22| Comment(0) | TrackBack(1) | SF評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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