2011年06月18日

連続講座 SFと科学01「人間についての謎」戸川 達男

 ふたたび間が空いてしまった。申し訳ない。ひさしぶりの更新となる今回は、第六回日本SF評論賞でわれわれの仲間となった藤元登四郎さんに登場いただこう。今月のSFマガジン7月号に掲載されている「「高い城の男」――ウクロニーと「易経」」で選考委員特別賞を獲得した。その精緻にして濃密な世界観はぜひとも現物を体験してほしい。

S-Fマガジン 2011年 07月号 [雑誌] [雑誌] / 早川書房 (刊)

S-Fマガジン 2011年 07月号 [雑誌] [雑誌] / 早川書房 (刊)

 藤元さんはSF評論家であると同時に医師でもある。藤元さんの理論は、科学とSFがどのように関わりあっていくかについて新しい視点を提示するものでもある。
 そこで、今回は特別に藤元さんにお願いして、3回シリーズで補講を組んでみた。まず第1回は藤元さんの恩師である戸川達男氏(前東京医科歯科大学医用器材研究所教授、前早稲田大学人間学部教授)に特別ゲストとしてご登場いただいた。藤元さんの理論をふまえ、科学者の目線からSFと科学の関係性について考えていただいた。続く第2回では、受賞作をより深く理解する助けとするべく、藤元さんご本人にウクロニーと易についてさらに語っていただく。これに続く3回目では、戸川氏の見解を受けてSF側からの回答例を、私、高槻が書かせていただく。
 SFマガジン掲載の受賞作とともに、ぜひとも楽しんでいただきたい。(高槻真樹)

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「人間についての謎」戸川 達男

 永らく懇意にしている藤元登四郎氏が第6回SF評論賞選考委員特別賞を受けられたとのことで、受賞作品「『高い城の男』−ウクロニーと「易経」」を読ませていただき、SF評論という高度の専門分野があることをはじめて知った。いま、いわゆるアカデミックな世界にはおそろしくたくさんの専門誌が刊行されており、わたしも仕事柄多くの専門誌の論文を読み、たまには論文を書いたりしてきた。しかし、読んで感銘を受ける論文はめったにない。そんなおりに、藤元氏の作品を読んでたいへん強烈な印象を受けた。SF評論の世界をまったく知らないので、その分野でこの作品がどう評価されるのかはわからないが、この作品を生み出し、また的確に評価することのできる高度の専門家集団が存在することがわたしには新鮮な発見であった。わたしの知る多くの国内外の学会や研究会でも、これほど高度の専門家集団は少ない。

 藤元氏にお礼の手紙を書いたおりに、藤元作品がたまたまいま執筆中の電子情報通信学会・情報システムソサエティ誌の4回シリーズの解説「人間についての謎」に通じるところがあるように思ったことを伝えたところ、そのまとめをブログに寄稿してほしいとの依頼を受けた。こういう思いがけない展開は何とも愉快なことなので、わたしに書けるよう内容がSF評論家に興味をもっていただけるかどうかをあまり考えることなく承諾
した次第である。

 解説シリ−ズ「人間についての謎」の1回から3回までは、早稲田大学人間科学部の講義「システム人間科学」で話してきたことである。講義のねらいは、人間についていかに多くの未解決の問題があるかを知ってもらい、その解明へのチャレンジをうながすことであった。ちょうど最終回の原稿を書きかけたときに藤元作品に出会い、新たな可能性に気づかされたので、いままでの講義にはなかった内容が加わることになった。そこで、まず解説原稿の1回から3回までをごく簡単にまとめ、4回の最終章の草稿をほぼそのまま転載させていただくことにしたい。

 第1回は、まず人間についての素朴な疑問、たとえば人間は「なぜ笑うか?」、「なぜ裸か?(なぜ体毛が退化したか?)」、「なぜ文化を持ったか?」などについてほとんど答えられていないことを指摘した。そのような疑問に答えるひとつの手がかりは人間の進化の過程をたどることである。そこで重要なのは、人間の祖先が文化を獲得した後、遺伝子進化と文化の発展が同時に進行したことである。わたしの教室の学生の博士論文となった研究は、他人の痛みを自分のことのように感じる共感の性質がなぜ進化したかという問題であった。そこで提起した仮説は、人間の祖先が言語を獲得し、経験を子孫に伝えられるようになったとき、伝承を受けた子孫が先人の苦しみをあたかも自分の苦しみのように感じる性質を獲得し、先人の体験が自分の体験と同じように生存につながる知恵として定着するようになったというものである。

 第2回は人間の寿命についての問題で、ヒト個体は生殖期すなわち自分の直系の子孫を残せる時期を過ぎてから異常に長く生きるのはなぜか、という疑問についてである。この疑問にはいくつかの説が提起されているが、やはり高齢者が文化の継承に貢献したことが大きかったと考えられる。ことに、文字文化以前には情報を子孫に伝えるには人から人への伝承であったので、伝承のエラーが重大な問題だった。そこで、1世代跳びこして孫の世代に継承できれば、継承のエラーの確率を半分に減らすことができたはずであり、そのメリットによって寿命が延長したのではないかと考えられる。

 第3回には心の問題を取り上げた。心についてはいまだに多くの謎があり、さらに不思議なことは、その謎の解明に真剣に取り組む人が非常に少ないことである。心の最重要課題と思われる意識が発現する機構がまったくわかっておらず、心の働きの基本となる自由意志、自己概念、感情、気分などの発現機構もほとんどわかっていないが、その現状があまり深刻には受けとめられていない。心の問題に関してはフロイトの影響力が大きかったようだが、最近はフロイト批判が盛んになって、フロイトをまったく評価しない人が多くなった。わたしはフロイト理論の基本概念である無意識理論は完全に誤りだと確信しているが、客観的な裏付けのない前提の上にあれだけ大胆にスケールの大きな理論を展開したことは高く評価すべきだと思っている。

 第4回の原稿を書き始めた時に、藤元氏から受賞作品の載っているSFマガジンが送られてきたが、そのインパクトによって、書きかけの原稿を放棄してすっかり書き改めることになった。その内容を説明する代わりに、最後の部分の草稿を以下にそのまま添付したい。

生存を超える価値の謎
 多くの人は長寿を望んでいるとしても、長寿だけが生きる目的ではないと考える人は多いだろう。冒険家のように、大きなリスクを承知で冒険に挑むような場合や、不摂生をしながら快楽を求める場合などでは明らかである。動物でも危険を冒す行動が見られるし、危険な行動は結果として種の存続につながることもあるので、個体の性質として危険を顧みず大胆に行動する性質が進化する場合もあるに違いない。
 しかし種のレベルでは、種の存続を犠牲にして快楽を追求するような性質は、少なくとも人間以外の動物では起こりえない。ところが現代の人間は、すでに快楽を追求するために種の絶滅の危険因子を大幅に増大させているように思える。快楽と言わずに、文化的価値とか精神性というように言い換えても同じことだ。では、種の絶滅のリスクと引き換えに追求するのが妥当だと言える価値とはどのようななものなのか?あるいは、種の絶滅を招く危険をおかしてでもなお良しとされる生き方とはどのようなものなのか?
 このような問いかけは、じつは人間は何か目的を持って行動しているということを前提にしている。それはもしかすると見当違いかもしれない。また、人生の価値というような概念を行動の動機に結びつけるのは無理なように思われる。むしろ行動を起こさせる動因は前号で述べた気分のような生理現象と考える方が妥当である。そうだとすると、人間にとっての価値とは行動の結果に対して与えられる後づけの理屈だということになる。もしそうなら、人類の絶滅と引き換えに獲得するような価値というものは、もはや人間の価値観ではあり得ない。それは難しい言い方をするまでもなく、人類が絶滅すれば文字通り元も子もないということである。
 もし人類の絶滅と引き換えに獲得する価値があるとすれば、それは人類ではない知的生物か人工生命のような者の視点における価値観であろう。あるいは、空想の世界であるかもしれない。心の世界では遠未来までも想像することができるので、種としては短命であった人類がいかに高度の心の世界を獲得したかを心に描くこともできるだろう。また、そのように人類の出現から絶滅までを客観的に眺めて感慨を述べる知的生物の心に感情移入するか、さらには自己概念を拡張して知的生物と自分が一心同体となることができるなら、人類の絶滅と引き換えに獲得した価値を、現実と変わらない確かさで感じ取ることも可能かもしれない。しかもその心的体験が現実の世界における行動を促し、あえて不都合な現実を受け入れ、未来の人のためになる生き方に喜びを感じるような感性を持つようになるかもしれない。
 感情移入の対象は原理的には知的生物でもいいはずだが、やはり人間であった方が容易であろう。絶滅が目前にせまった人類がもはや救済の手だてのないことがわかったとき、どうして過去の人たちがこの危機が来ることに早く気づいてくれなかったかと嘆き、違った歴史であってほしかったと切に願うことを想像できるかもしれない。そこで現実に戻って、今の自分は未来の歴史を変えることができ、あたかも自分の分身である絶滅寸前の未来の人を本当に救済できることに気づいたとき、新たな行動の動機が起こり、それによってはじめられた行為が、結果のいかんによらずに自分やほかの多くの人の心に充足をもたらすことになるということは起こりうることである。
 未来の人の心と一体になることは、ただ未来に起こるに違いない恐ろしい出来事を具体的に示すより、人類の危機を救うためにはるかに有効であるに違いない。遠未来に起こることを示しただけでは、それがどんなに深刻なことであっても、自分には直接関係のない事柄にすぎない。しかし自分と一心同体の未来の人に起こることは自分の将来の問題であり、利己的な人であっても、自分の将来のためなら現在の不都合を受け入れることができるであろう。
 環境問題のアピールでも、将来起こりうる事柄を示しただけでは自分の問題としては受け取られない。アル・ゴアの制作したDVD「不都合な真実」を見ても未来の人と一心同体となれるような想像の世界が欠けているように思えてならない。
 普段は、アカデミックな問題に愛というようなあいまいな概念を使いたくないのだが、未来の人との関係にはあえて愛という言葉を使ってみてはどうかと思う。未来の人々への愛なくしては人類に遠未来はない、というアピールはかなり論理的な裏付けができる。しかし、遠未来の人々への愛が現実となるためには、遠未来の世界を想像することができる感性が必要であり、その感性を養うには空想物語が不可欠であるかもしれない。
 人類はあまり遠くない未来に絶滅寸前にまで追い込まれるが、かろうじてその危機を脱して生き延び、種の寿命を全うするかもしれない。しかも、その危機を生き延びることができたのは遺伝子進化ではなく、心の世界における革命的な出来事であったということになるかもしれない。それは生物多様性の一環と言えないこともないが、他のすべての生物における遺伝子進化とは違って、心の世界の事柄であるという点で、他の生物とはずいぶん違っている。
 人類は地球が飽和状態になるまで繁殖した上に、心の中にも地表を上回る広大な世界を出現させた。それによって、動物としての生き方も価値観も再検討をせまられる事態に至っているが、一方ではこのシリーズで述べてきたように、人間についての素朴な疑問にまだほとんど答えられていないのはじつに不思議なことである。こんな巨大な未踏峰が目の前にあるということは、チャレンジャーにとってはまたとない幸運であるに違いないと思うのだが。

 以上が「人間についての謎」の概略であるが、そこで見えてきたことは、謎解き自体は究極の目的ではなく、近未来に起こるかもしれない絶滅の危機から人類を救済することがさしせまった課題であり、そのためにこそ人間についての謎解きが必要だということである。その救済劇のシナリオに空想物語を登場させるという発想はSFマガジンから得たものである。いまわたしはかなり本気で空想物語の効果を期待している。できるならSFマガジンで未来の人々への共感をテーマにしたSF作品を懸賞募集することを提案したい。日本のSF作家およびSF評論家のレベルの高さを考えれば、優秀作品が世界中で読まれるようになることは夢ではないに違いない。それによって環境問題などが解決の方向に向かうことがわかれば、国際的にも最大級の賞賛を受けることは間違いないし、そのような記念すべき作品は遠未来までSFジャンルのクラシックとして読み続けられることだろう。
posted by 高槻 真樹 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | SF評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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