2012年10月09日

『魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』ラストの画像について(宮野由梨香)

 『魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』を、娘2人(小5・中1)と一緒に見に行ってきた。映画館に他の「第2次性徴期」の少女の姿はあまりなかった。というか、そもそも女性が少なかった。非常に残念である。この作品は女性、特に第2次性徴の少女に見てもらいたいと思うからだ。見る機会さえあれば少女たちを夢中にさせる内容であると思われるし、娘たちやその同級生たちの反応は充分にそれを窺わせるものがある。
 青年期を「疾風怒涛【ルビ:シュトゥルム・ウント・ドラング】の時代」と呼ぶことがある。精神的にも身体的にも不安定な時期を通り抜けて、人は子供から大人へと質的な変換を遂げる。
 身体の変化は、女性の方が男性よりも早い。
 胸がふくらみ、生理が訪れるようになった少女は「生き物は死ぬ」という事実と必然的に向き合わされる。自分もいつかは死ぬからこそ、自分の身体は子孫を残そうと変化を始めたのだ。それが第二次性徴だ。
 成長とは、死に近づくことである。
 生殖とは、個体の死を前提とする行為である。
 それらはすべて世界を成り立たせる条理とつながっている。自分の生命も今までの人生の過去も未来もすべてがその中にある。だれもそこからは逃れる術はない。
 みんな死ぬ。家族も友達も私自身も死ぬ。子供を産んだって、その子もいつか死ぬ。では、生きるとは、何なのだろう?

         〇

 物語の舞台は「世界の最先端建築の粋を集めたハイテク未来都市、見滝原市」(註1)である。
 ハイテク未来都市は「死」を隠蔽している。
 そこに生まれ育つ少女は、食べものが実はすべて死骸であること、あるいは生餌であることを認識する機会を奪われている。食べものは商品として店に並ぶものだ。肉を食べても、殺された動物のことをいちいち考えたりはしない。
 少女たちが通う学校には、死角がない。廊下を歩く人の姿も、教室の内部も、明確に見通せるガラス張りの設計になっている。どこにも身を隠す場所がない。
 死角がないから、いじめや盗難も起こりにくい。というか、起こる余地がないように考えられた校舎なのだ。
 机に引き出しはない。テキストは画面に映し出されるし、ノートもキーボードを叩けばいいから、鉛筆も消しゴムも要らない。教室に黒板はない(註2)。一見ホワイトボートに見えるが、実は、スクロールもでき、ペン入力も可能な電子画面なのである。チョークの粉が降りかかることもなく、手を汚すこともない。 
 理想的な設備の整った学校……それが見滝原中学だ。
 ここでは電気もクリーンな風力発電で得られるらしい。通学路には人工の小川が流れ、緑も多く、快適で便利で安全だ。
 そして、このような場所にこそ「魔女」は発生する。生きるということに伴う不快で不便で危険な部分が、発散の機会と場所を与えられていないからである。そして、こういったものは、抑圧されるほどに熟成されて噴き出てくるものなのだ。
魔女の口づけを受けて、集団自殺を図ろうとする男は、次のようにつぶやいていた。

「そうだよ、俺はダメなんだ。こんな小さな工場ひとつ、満足に切り盛りできなかった。今みたいな時代にさぁ、俺の居場所なんて、あるわけねえんだよな……」

 自らの能力に絶望し、生きる経済的基盤も失い、自殺を図る男……こういった人物を発生させるのも「見滝原」だ。
 このディストピアにあって人々が求めるのは「見たき胎【ルビ:はら】」である。
 ホモ・サピエンスの受精卵は胎の中で十月十日を過ごしてから、外へ産み出される。その胎をインキュベーター(孵卵器)と同じものだと考えるのが、ハイテク未来都市である。インキュベーターにとって卵はどれも同じ「消耗品」にすぎない。卵の親も代替可能な「家畜(註3)」である。ひとつひとつの卵の運命などどうでもいいし、家畜は有用でなければ存在価値がない。
 ハイテク未来社会の中で、インキュベーター的なものの見方に我々は意識することなく染まっていく。そして、自分自身をも同じような目で値踏みする。結果、生きられなくなり、自殺する人もいる。
 「見たき胎」……それは、インキュベーターではない胎のことである。中に宿った生命を唯一無二の存在として慈しみ育てる胎といってよい。だが、それは未来において実現させたい希望としてしか、まだこの地には存在しない
 そもそもタイトルの『魔法少女まどか☆マギカ』……意味だけを考えるのなら『魔法少女まどか』で十分である。では、なぜ「マギカ」がついているのか? 
 それは、マの頭韻を踏むことによって、ママ=母なるもののイメージを付加することを、作品テーマが要求したからである。
 『新世紀エヴァンゲリオン』が「母であることの受難と、それによる、子の受難」を扱ったもの(註4)とするならば、『魔法少女まどか☆マギカ』は、「母となるべき身体をかかえた少女の受難」を扱っている。そして、少女の受難は、すべての生きとし生けるものの受難へとつながるのだ。

           〇

 『魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』のラストには、TV版にはない映像が付け加えられていた。まどかを胎児として孕む女性のシルエットである。しかし、そのシルエットはキュウべえを連想させるようなものなのだ。
 練られ練られた象徴的な画像のラストにつけ加えられた奇妙に薄っぺらなその画像は、見滝原の俯瞰に加えられた海の情景とセットになって、見る者に新たなメッセージを伝えようとしているようである。(宮野由梨香)


(註1)虚淵玄は「「魔法少女まどか☆マギカ」の世界に入り込んだら、何をしてみたいですか?」という質問に「世界の最先端建築の粋を集めたハイテク未来都市、見滝原市を隅々まで観光してみたいです。」と答えている。(「魔法少女まどか☆マギカ展 記念ブックレット」五ページ)
(註2)脚本には「黒板」とあるが、暁美ほむらが名前を書くボードは白い。その後の授業での使われ方から、これが電子画面であることがわかる。
(註3)「女性=家畜」のアナロジーは、「女は人間扱いしちゃ駄目っすね。犬か何かだと思って躾けないとね」という男の発言が作中にあった。
(註4)高田明典「アニメーション構造分析方法論序説―『新世紀エヴァンゲリオン』の構造分析を例題として」(青弓社〈ポップ・カルチャー・クリティーク〉0・『「エヴァ」の遺せしもの』所収)等の指摘による。
posted by 21世紀、SF評論 at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | SF評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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