2014年02月11日

『鉄男 THE BULLET MAN』(藤田直哉)

《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日〜8日に開催された東京での第49回日本SF大会(tokon10)を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」(東京に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ(http://blog.tokon10.net/)および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

※スーベニアブック版「東京SF大全」再掲は、本稿でもって完結いたしました。

塚本晋也
『鉄男 THE BULLET MAN』
(海獣シアター製作、アスミック・エース配給、2010年)
評者:藤田直哉
鉄男 THE BULLET MAN 【パーフェクト・エディション Blu-ray】 / 塚本晋也, エリック・ボシック, 桃生亜希子, 中村優子, ステファン・サラザン (出演); 塚本晋也 (監督)
 「世界貿易センタービルが崩れ落ちるさまを見て、美しいと思えるほど子供ではなくなった。/かつて鉄男の雄叫びに歓喜した我々は、不景気に抗い、慎ましやかな生活を送っている」(『完全鉄男』p101)
 『鉄男 THE BULLET MAN』(以下『鉄男TBM』)は2010年5月22日に国内公開された塚本晋也監督の映画作品である。1989年に公開され、ローマ国際映画祭でグランプリを獲った『鉄男』の、ストーリーは繋がっていない三作目にあたる。かつて企画のあったアメリカ版『鉄男』を意識して、全編英語の作品になっている。
 作家論的な大まかな流れとしては、『鉄男U BODYHAMMER』(92)や『東京フィスト』(95)で意識したという「都市と身体」のテーマが、『ヴィタール』(04)において、身体から自然というテーマに繋がり、そこから意識の内部を描く『悪夢探偵』(07)『悪夢探偵2』(08)を経て、家族という新しいテーマを発展させて『鉄男』をもう一度語りなおしているのが本作である。
 全編ソリッドな映像と都市描写とスピードで描かれたこの作品は、とてもエッジが尖っていて、触れると切れそうである。東京という都市で生気なく暮らしている男が、怒りの衝動で全身を鉄と化して兵器化していくという物語には、巽孝之の指摘によれば小松左京『日本アパッチ族』のミームが関係している(『塚本晋也読本SRV』)。「鉄を食う」とは、テクノロジーと一体となって生きるということでもあり、戦後の日本が技術国家として重工業に力を入れて発展したことのメタファーでもあるだろう。「鉄を食う」選択をする怒りの原点としては、原子爆弾による敗戦の経験を忘れるわけにはいかない。
 塚本が「兄」と呼ぶ大友克洋の『AKIRA』の、戦後の廃墟を思わせる都市や、核兵器の爆発を思わせるラスト、「破局」に向って突っ走っていく衝動というものが、「ポストモダン」の記号的で遊戯的な日本において同時代的に生じていたのだとすると、塚本の『鉄男』『鉄男U』はまさにそれを描いていた。「もう怖がることはない。美しいと感じた気持ちのままに、ムチャクチャにやってくれ、いちばんでかいものを壊してくれ」とかつて『鉄男U』のエンディングでは語られた。記号操作・バーチャル的な世界に対する「生」の突き付けが破壊ということによって可能だったという時代の空気があったのだとすると、本作はほとんどその衝動への反省である。『バレット・バレエ』(2000)の頃から戦争を意識しはじめたと塚本は言っているが、2010年のインタビューにおいても「現在は仮想現実と思ってボーンと壊してしまうと、それこそすべてを壊滅させてしまってもう元には戻らないという怖さがある」「今の世の中は、たったひとりの無意識の暴力が、世界を崩壊させる力を持っていると感じます」(『塚本晋也読本 SRV』)と述べるという変化が起こっている。
 もはやバーチャルリアルで記号操作的に感じられるようなこの世界は、単なる破壊で「生」を見せ付けることではどうにもならない。「廃墟」を知らない人々が増えたこの現代世界において、破壊ではない形で如何に「生」を取り戻し、如何にして未来を切り開くか。塚本晋也の演じる「ヤツ」の表情と、エリック演じるアンソニーの「悟り」(と彼が呼ぶもの)の凄まじさには、そのことの答えが滲み出ているように見える。都市を破壊して廃墟を作るのではなく、暴力性を内側に取り込んで、体の中に廃墟と暴力性を抱え込んだまま「人」の形を保つこと。「家族」こそがそれを可能にし、破局ではなく「未来」を選択させる。
 このラストの思想は、他律に対する反動を快として感じたポストモダンの思想家の一人である、フーコーの晩年の思想を想起させる。晩年のフーコーは、他律による禁止でも、それがない状態で好き勝手をやることでもなく、自律により「自分自身を美しい芸術作品のように磨き上げていく」(浅田彰「『現在』を考える」)ビジョンを抱いた。他律のない裸の生が電子情報網で管理されてしまう現在において、塚本は身体の持つそのような可能性を、映像と音響の強烈な作用によって映画と観客の身体と神経を融合させることによって体感させ、目覚めさせようとしている。
posted by 21世紀、SF評論 at 17:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 東京SF大全(スーベニアブック版再掲) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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