2013年01月15日

地球SF大全 2 少年の夢よ再び――福島鉄次『沙漠の魔王』が復刻された!(藤元登四郎)

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地球SF大全 2 
 少年の夢よ再び
 ――福島鉄次『沙漠の魔王』が復刻された!


 藤元登四郎

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「沙漠の魔王」完全復刻版 [コミック] / 福島 鉄次 (著); 秋田書店 (刊)

●『沙漠の魔王』から『砂漠の魔王』へ

 2012年春、神田の本屋で、秋田書店創立65周年記念特別企画として、『沙漠の魔王』の合本の全10巻が復刻されるというポスターを発見した。
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 胸は高鳴った。ああ、私はいつも『沙漠の魔王』を夢見ていたのだ。実際、全巻そろえるとすれば、古書価で百万円近くにはなるだろうし、そもそも入手自体が不可能である。この作品が連載されていた『少年少女冒険王』(以下は「冒険王」と記す)でさえも一冊が数万円以上の値段をつけている。こういう次第で、10巻まとめて読むなどということは、かなわぬ夢であるとあきらめていたのである。ところが、今、もう一度この本をまったく新しい状態で読むことができるのである。私はすぐさま予約した。
 予定通り、8月10日には素敵な化粧箱入りで送ってきた。この合本は、「冒険王」の連載をまとめたもので、第一巻から第九巻までは昭和27年に発行されたものである。昔、私はこのほとんどの巻を所有していたので、内容ははっきり記憶していた。しかし第十巻は、それ以降の作品をまとめたもので、今回の企画のために新たに編纂されたものである。私は中学校に上がると、「冒険王」から遠ざかってしまったので、第十巻の内容をほとんど知らない。そこではほとんどが初めてお目にかかるものであった。特に、第十巻の後半にはモノクロの部分があるが一体どうしたのだろうか。
沙漠の魔王 完全復刻版 秋田書店創立65周年記念特別企画 12巻セット
 それから今になって特筆すべきことは、『沙漠の魔王』の「沙」という字は第四巻まで使用され、第五巻から「砂」の字に変わり『砂漠の魔王』となっていることである。これは、漢字の時代的な変遷や、教育制度が次第に整っていく様を反映している。
 さて、化粧箱には、合本全10巻に加えて、『ボップ少年の冒険 ダイヤ魔人』と『沙漠の魔王読本』と、さらに「冒険王」に入っていた付録まで付いていた。付録は沙漠の魔王双六、魔王凧、魔王カレンダーの三点であった。魔王カレンダーは驚くなかれ、昭和二十六年のものである。もはや使い物にならないが、じっと見つめていると、幸せだった小学生時代がよみがえってくる。これを見るとあの頃は、今に比べると休みは少なかった。また、この付録の凧作りをやった記憶があるが、子どもの手作りなので、魔王は空中に舞うことはできなかった。腹を立てて破り捨ててしまったが、付録とはその程度のものであった。ところが今は宝もののように貴重なものである。魔王双六では、炬燵で母の焼いてくれた餅を食べながら弟と遊んだものである。この付録がすっかり忘れていたことを昨日のように再生させたことは、人間の記憶の不思議さを感じさせる。2013年の元旦は、年老いた男一人で、ひっそりと魔王双六をやった。幸せな正月であった。


●冒険王

 『少年少女冒険王』は秋田書店から発行され、1949(昭和24)年4月が創刊で1983(昭和58)年4月に幕を閉じた。ちょうど、その時代は、『少年クラブ』、『少年画報』、『少年』など少年雑誌が発行されていたが、『冒険王』は『沙漠の魔王』人気で勝るとも劣らぬ地位を占めていた。これらの雑誌はすべて、現在世界を席巻している日本漫画の原点というべきものである。
 『冒険王』創刊号は福島鉄次が表紙を描き、『ボップ少年の冒険 ダイヤ魔人』が四色刷りで掲載されていた。この美しい漫画が人気を呼び、『冒険王』は3日間に3万部を売り切ったという。最初は2、3回で終わる予定だったが、出てきた巨人が大好評であったので、翌四月号から巨人である「魔王」を強調して、題名が『沙漠の魔王』と変更された。魔王人気はうなぎのぼりに上がる一方で、1978(昭和33)年の「冒険王」新年号では実に55万部にも達したという。もちろん私も、小学生時代は『冒険王』の発売を首を長くして待っていたものであるが、中学校に入ると興味は次第に他の方に移っていった。


●福島鉄次(1914-1992)

 福島県出身の画家で、戦前は軍事物や時代物の挿絵を描いていた。戦後、横須賀駅で、秋田書店の創設者である秋田貞夫とぱったり出会ってから、再び挿絵画家に戻ることになった。その当時は、進駐軍が放出したアメリカン・コミックが路上にござや毛布を敷いて売られていた。福島は、ターザンとかアラビア風とかを買い込んできてこの作品を描く参考にした。またアメリカ映画も大人気で、映画ファンの福島は、アラビアの盗賊の服装を参考にして魔王の姿を仕上げた。ストーリーは、ぶっつけ本番で、その号を仕上げてから考えるという風であった。
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 その時代は、敗戦によって、日本の伝統的文化は破壊され否定されて、老いも若きもアメリカ文化崇拝一本であった。『沙漠の魔王』の主人公のボップ少年は、名前も顔つきもアメリカ人のようであった。しかし、その当時人気のあった多くの漫画の主人公は、小松崎茂の作品など西洋人が多かった。これはアメリカ映画ブームだったので、日常生活にアメリカ人が入り込み違和感を抱かせなかったからであろう。むしろ西洋の少年が登場することは、アメリカの映画のように、すぐれた作品であることの証明であるようにさえ思われた。逆にいえばそれほど、日本本来の文化の価値は地に落ちていたのである。
 小野耕世は、『沙漠の魔王』は「敗戦後の苦しい時代の日本の少年読者たちへのぜいたくな贈り物であった」と指摘している。実際、この作品の美しい四色刷りの印刷を見ていると、廃墟の中に生きる少年たちの心をいかに豊かにしたかが理解できる。その頃の少年雑誌は、表紙だけは見事なカラーだったが、掲載されている漫画はほとんどがモノクロで、小松崎茂や山川惣司の作品も色刷りであったが、『沙漠の魔王』ほど手の込んだ華麗な印刷ではなかった。
 福島は、アメリカン・コミックのようなものを目指して、そこで使用されているような細い筆を使った。彼はアメリカン・コミックに負けないものを創造しようという気概で挑戦したのである。
「デッサンは私自身、一生懸命やりました。気に食わないと何回も消しゴムで消して、それからはじめてペンをおろすというので、非常に遅い。遅いから16頁描いて色を塗るとフウフウです」

 と、福島は苦労を語っている。


●『沙漠の魔王』を再読する

 不思議なことに、60年ほど前に読んだのであるが、今、もう一度読み返してみても印象は変わらない。特に第一巻の表紙の、アラビア風の服装の魔王が右手に剣、左手に香炉を持ってすっくり立ち、そこに銃を持ったボップ少年が馬上から、魔王をにらみつけている場面は、今だに新鮮で胸が躍る。
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 物語はターザン映画とアラビアンナイトとギリシア神話が混合され、今でいうファンタジーに近いものである。しかし、次第に飛行機や戦車などが登場してSF風になっていく。舞台はジャングルで、ボップ少年は探検家の服装で、ターバンを巻いたアラビア風の人物が登場する。彼らに襲われたボップ少年は不思議な香炉にめぐり合った。その香炉に香木サラ樹をたくと、煙の中から魔人ブラダが突然姿を現し、良い事でも悪い事でも命令されるがままに行動するのである。やがて、ドゴイ族という小人土人が襲撃し怪獣が現れる。ボップ少年やその仲間は次から次に襲撃されるが、勇気を持って危機を乗り越えていく。どうしても抜き差しならぬ危機に陥ると、魔王が現れてボップ少年や仲間を救出する。恐るべき敵と魔王が格闘する姿は、今になっても、形容する言葉が見つからないほど感動的である。
 メリーという女の子が登場し、ターザン映画のジェーンのような原始的な姿で活躍する。メリーが怪人ガンゼに寄り添っている姿は、古風で可憐で色っぽくて、愛読者の少年たちを魅惑したのは至極当然のことである。こうして年取ってから見ても、福島鉄次の女性が古風な魅力に満ちていることには感心させられる。
 第二巻の後の方には、飛行機や怪飛行艦やロボット戦闘機が登場するが、それらの形は何といえず魅力的である。福島鉄次は、まるで様々な女性でも描くように、エロチックなマシーンを表現している。巻が進むにしたがって、作者自身も完全に作品の中に没入し、画面は圧倒的で恍惚とした力や緻密さに満ちてくる。
 第四巻になると、魔王は戦闘機を剣で切り、飛行機に組み付きあっという間にばらばらにしてしまう。この場面の迫力は圧倒的である。最新鋭の無人機、今でいうミサイルが魔王をねらうが、ひらりひらりと身をかわして当たらない。落下傘で降下してきた戦車の攻撃も通用しない。
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 第5巻になると潜水艦も登場するが、そのメカニックの見事さはたとえようがない。また、魔王の偽物のロボットまで現れる。
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 ところが、第九巻になると再び、ジャングルの蛮族が現れて、激しい戦いになる。
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 そして、第十巻になると、次第にどぎつい戦いはなくなって、生気を失い、後半になるとモノクロの部分が現れる。残念なことだが、『沙漠の魔王』の魅力は失われて、結局、終了してしまった。


●『沙漠の魔王』の悲劇

 『沙漠の魔王』がなぜこのような突然の終末を迎えたのか、私はまったく知らなかった。しかし、付録の『沙漠の魔王』読本にある、漫画研究家中野晴行の『沙漠の魔王誕生秘話〜福島鉄次と秋田貞夫〜』を読んでショックを受けた。正直にいって、持って行きようのない激しい怒りが湧き上ってきたというべきであろう。その部分を引用しよう。
  55年2月11日付の『朝日新聞』には、教育者で戦前の「生活綴方運動」の推進者であった滑川道夫が「青少年読み物を健やかに、出版界への警告と民間勢力結集の提案」と評した記事を寄稿している。この中で滑川は、児童雑誌の半分をマンガや絵物語が占め、その大部分が怪奇冒険探偵小説・活劇物語・空想科学小説・講談の類であることを指摘。さらに内容が荒唐無稽で、非科学的かつ前近代的であると嘆いた。

 これをきっかけとして、「母の会連合会」が悪書を「見ない、読まない、買わない」の「三ない」運動を展開し、5万冊の悪書を切り裂いて古紙業者に売るというパフォーマンスをやったという。もちろん『沙漠の魔王』も荒唐無稽でけばけばしい漫画としてやり玉に上がった。そしてその翌年1956(昭和31)年二月号で『沙漠の魔王』は唐突に終わった。いや、終わらざるを得なかったといえるだろう。
 おそらくこの頃、これまで発行された漫画や少年雑誌は多くが処分、すなわち焚書にされてしまったと思われる。このことが、現在、当時の漫画の古書価が天文学的数字に跳ね上がっている理由の一つであろう。実際、私もその時代の風潮に巻き込まれて、それまで所有していた『沙漠の魔王』や他の漫画を処分してしまった。惜しいことをしてしまったものだ。私と同様に悔しい思いをしている人々も多いだろう。実際、じっと持っていたならば、ひと財産できたであろうからである。
 今こうして振り返ってみると、『沙漠の魔王』は当時の少年たちの希望であった。食べ物もおやつも十分ではなく、いつもおなかをすかせていた。遠足のときに、森永ミルクキャラメルや明治クリームキャラメルやグリコを楽しみにしている時代で、チョコレートなんてほとんどなかった。着るものも十分ではなく、つぎはぎだらけのおさがりの服を着て下駄をはいていた。大人たちは敗北感に打ちのめされていたが、このような中で福島鉄次は、未来を担う子どもたちのために情熱を燃やして、この作品を描いたのであった。そうでなければ、このような熱気あふれる作品は完成しなかっただろう。
 『沙漠の魔王』は、藤子不二雄Aや宮崎駿など偉大な漫画家たちに大きな影響を与えた。特にその経緯は、この付録の中で、映像研究家の叶精二『宮崎駿監督と「沙漠の魔王」』が詳細に述べられている。その影響力の大きさには驚くばかりである。時代は大きく変わり、教育の荒廃が騒がれている。しかし、この荒廃の原因の一つは、少年たちの心を踏みにじった、無理解で哲学のない偽善的な運動にあることは間違いない。二度とこのような誤りはおかしてはならない。


●おわりに

 今や、日本の漫画は今や世界を席巻している。これらの漫画の原点の一つは『沙漠の魔王』にあるといっても過言ではない。福島は第一巻の彼の写真入りの「巻頭言」で次のように書いている。
「皆さんも、『沙漠の魔王』をそして『冒険王』をお読みになる時は、唯面白いと云うだけではなく、その中から、悪いことはしりぞけ、正しい事はあく迄やり通す精神、どんな苦しい事にあっても、これを笑って迎え、決してへこたれぬ勇気をくみとって頂いたなら、私はそれ以上の喜びはないと思います」

 この言葉をいま読み返してみると感動で胸が熱くなる。私は福島が書いている通りの精神でへこたれずに、この年まで生きてきた一人である。ここで改めて愛読者として、偉大なる画家、福島鉄次に敬意を表するとともに心より感謝申し上げる。また、『沙漠の魔王』を復刻された秋田書店の方々のご勇断に厚く御礼申し上げる。


【参照】 『沙漠の魔王』完全復刻版、秋田書店、2012。
【編注】 引用画像は秋田書店のウェブサイト(http://www.akitashoten.co.jp/f/html/sabaku.html#&slider1=6)および紀ノ国屋Web(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4253102018.html)、三鷹の森ジブリ美術館のウェブサイト(http://www.ghibli-museum.jp/welcome/exibition/sashieten/007691.html)より。
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2012年05月29日

地球SF大全 1  『デビルマン』(永井豪とダイナミックプロ)


 「地球SF大全」について

 これから、「地球SF」と考えられる作品を取り上げて、交代で論じていこうと思います。
 1か月に1篇を計画しています。
 「地球SF」という概念をとおして、いろいろと見えてくることがありそうだからです。

 さまざまな主義主張は、「地球」というものをどう考えるかで、ある程度分かれるのではないでしょうか?
 『鉄腕アトム』……初代アニメ版の最終回は「地球を守るためのアトムの死」でした。でも、主題歌にアトムは「人間守って」と唄われています。これが、「地球を守って」だったら、相当に印象が変わります。
 『ウルトラマン』……彼にとっての地球とは、つまり何だったのでしょうか?
 『科学忍者隊ガッチャマン』……主題歌に「地球はひとつ♪」と唄われています。そして、ラスト近く、物語はあからさまに「地球そのものを守る戦い」に変化します。
 『宇宙戦艦ヤマト』……地球がまさに「国土」のアナロジーになっています。

 その作品にとって、地球とは何なのか?
 単なる「居住可能な惑星のひとつ」なのか? あるいは、かけがえのない「聖地」なのか?
 このように、いろいろな視点から、さまざまな「地球SF」を論じていこうと思うのです。
 
 第1回は、この名作について考えてみることにしました!

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地球SF大全 1 『デビルマン』(永井豪とダイナミックプロ)

(書誌情報(註1)をご覧ください。引用は講談社漫画文庫(新装版・全4巻)2009年からになっています。)

 宮野由梨香

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 初出は〈週刊少年マガジン〉の1972年25号〜1973年27号であるから、40年前の作品である。
 だが、名作は常に新しい。『デビルマン』は何度も版を改めては出版され(註1)、今も順調に売れ続けている(註2)。
 この2012年の4月6日にも、新しい版の第1巻が講談社から発売されている。(全4巻がそろうのは、7月6日の予定)

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 (ネタバレあります! 未読の方は読んでからお越し下さい。)


 この作品を「地球SF」と認定するのは、「地球の支配権」をめぐる話だからである。
 
 主人公・不動明は「デビルマン」だ。
 「デビルマン」とは何か?
 理性を持つ人間でありながら、デーモンとの合体に成功した者のことである。
 デーモンは何か?
 ホモ・サピエンス誕生以前に、地球の支配者だった者たちのことである。
 あらゆる者と合体し、その能力を自分のものにできるのがデーモンだ。しかし、デーモンは人間とだけは合体しにくい。人間は「理性」をもっているからだ。
 
 「あらゆる物体 あらゆる生物と合体できるデーモンが なぜ 人間とだけ合体しにくいか・・・・それは 人間がデーモンのきらいな物をもっているからに ほかならない」                              (第1巻188頁)


 不動明は、親友の飛鳥了からこのように聞かされる。
 飛鳥了は考古学者である父から、デーモン研究の成果を遺産として託されていた。
 
 「それは 理性だよ 人間がもっとも人間らしく生きるための心……理性  そいつが デーモンには たまらなくいやなのだ」(同上)
          
 
 だから、デーモンと合体する人間は、合体の瞬間には理性をなくし本能だけで動いていなくてはならない。しかし、その人間にもともと確固たる「理性」がない場合は、デーモンに意識を乗っ取られ、デーモンの一員になってしまう。
 「デーモンと合体し デーモンの超能力を手に入れ 人間の心をもちつづけることのできる者」(第1巻167頁)つまり、デビルマンになるためには「デーモンの意識をおさえる強い意志 善良で純粋な心を持ち 正義を愛する」(同168頁)という資質が必要なのだ。
 
 「だからおれは 不動明 きみをえらんだ!」(同169頁)

 
 と、明の親友、飛鳥了は言う。
  飛鳥了の父が息子に託した遺産とは、「デーモンと戦う方法」(同118頁)だった。 
 
 「デーモンと戦う方法 それは! 自分自身がデーモンとなることだ」(同149頁)

  
 そして、不動明は飛鳥了の要請に応じて、自ら「デビルマン」になる。
 物語は、それから明が抱えることになった運命を語っていく。
 ここで注意したいのは、最初から「地球の支配権」が話題になっていることである。
 飛鳥了は、誰が地球の支配者になるかだけが、関心事のような語り方をする。

 「もともとかれらの地球だからな  デーモンにしてみれば人間はひるねのうちにはいったコソドロだよ  うばいかえすのがとうぜんだろう」(同112頁)
 「地球を! おれたちの地球をやつらにわたしてはならない!」(同197頁)


 もちろん、デーモンが地球を支配するようになれば、人類は滅びるだろう。しかし、例えば飛鳥了は、不動明を「デビルマン」にしたてあげる過程で犠牲となった「快楽を追って理性をすててあそぶのになれている」(同190頁)人々のことなど、いっさい意に介さない。
 そして、明は、自らの身体がデーモンと合体することを、人間としての自らの死だとは考えない。それだけ、彼は「理性派」なのである。正義感に燃えた理性派の少年は自らの身体を顧みない。……こういう少年こそが「デビルマン」となる素質を持つ。
 なかなか、意味深長な設定である。
 
 では、再度問おう。
 「デビルマン」とは何か?
 「人間がもっとも人間らしく生きるための心……理性」(同188頁)と飛鳥了は言った。
 デーモンの身体を理性でもってコントロールする…これはすなわち「近代理性人」の隠喩にほかならない。その意味では、すべての「近代理性人」はデビルマンだ。(註3)
 我々の身体性に深く根ざした無意識の領域にひそむ、まさにデーモニッシュな欲望、それが、理性によって支配すべき「デーモンの身体」だ。デビルマンが得た「デーモンの身体」とは、いわば「内なる自然」のメタファーである。
 そして、その体を使って戦い滅ぼすべきデーモンとは、「人間と対峙するものとして位置づけられた自然」のことである。
 地球の先住者デーモンとは、人類以前に存在した「自然」の総体なのだ。地球の生態系を構成する彼らは、分離不能な合体物である。
 近代理性人は、内なる自然も、外なる自然も、自らの理性によってコントロール可能なものと考えた。いわば、「身体」も「地球」も自分の支配下に置けると考えたのだ。
 その結果、どういうことになったか? 
 現代に生きる我々は、既にその答えを知っている。
 
 デビルマンとなった不動明は、デーモンと必死に戦う。
 だが、戦えば戦うほど、「近代的市民」や「理性」は、その暗黒面をあらわにしていく。
 デーモンの存在を知った「近代的市民」たちは、デーモンを悪魔と認識し、その悪魔と戦うために「悪魔特捜隊」をつくる。だが、それは、無実の人間を連行しては殺す役割しか果たさない。
 不動明がデーモンの体をもつことが告発され、彼の育ての親の牧村夫妻は、そこに連行される。「兵器の城」であり「機械文明の最期の砦」(第4巻170頁)であるそこを、不動明であるデビルマンが襲う。しかし、牧村夫妻は、既に拷問の末に殺されていた。
 
 「地獄だ・・・・ここは・・・・人間がつくりだした地獄だ! 悪魔からの恐怖から逃げるため・・・・人間みんなが恐怖をあたえる側にまわろうとあがいている  被害者から加害者に・・・・ここだけのことではない 人間ぜんぶが自分より弱い者をたたこうとしている・・・・」(同212頁)

 
 人間を守るためにデビルマンになった不動明。だが、人間とは、そうまでして守るほどのものだったのか? 
 特捜隊の中の生き残りが、デーモンの姿をした明を悪魔と思い込んで、このような命乞いをする。

 「お・・・・おれたちのやったやつらは みんな 人間だったよ。……中略……だ、だから 悪魔を殺してはいないさ・・・・そ それに おれたちも すきでやっているんじゃない 上からの命令なんだ・・・・ わかってくれ」(同123頁)

 
 まさしく、アイヒマンのセリフである。
 明は叫ぶ。
 
 「これが! おれが身を捨ててまもろうとした人間の正体か!」(同125頁)


 人間に絶望した明は、戦いの目的を「人間を守る」から「美樹を守る」に切り替えることでモチベーションを保とうする。美樹とは、明が愛する少女のことだ、だが、美樹は悪魔を恐れる群衆によって既に殺されていた。
 明は首から切り落とされた美樹の頭部を抱きしめて泣く。(註3)
 しかし、どこまでも「理性を持つ者」であることにこだわる明は、だからこそ、戦いを止めることができない。
 そして、彼をデビルマンにした飛鳥了は、このようなことを言い始める。

 「不動明 きみは何者だ 人間か? ちがうだろ もとの人格が人間のものであっても きみは どこから見てもデーモンなんだよ ……中略……不動明が生きられる世界はデーモンの世界だけなんだ! 人間はほろびる! 自然にね・・・・ デーモンはもう手をくださないだろう 人間の滅亡をしずかに待つつもりだ」(同157頁)

 
 思いもよらない飛鳥了の言葉に、不動明は驚愕する。
 飛鳥了が、その正体を明らかにした瞬間である。
 
 「わたしがきみをデーモンと合体させたのは 人類をまもらせるためではなかったらしい あのときは そう思っていたんだが ほんとうは きみを 新しい世界に生きのこらせたかったかららしい  わたしはデビルマン軍団とは 戦いたくない  新しい時代に生きてくれ」(同159頁)

 
 飛鳥了は、実はデーモンの指導者たる「サタン」であった。彼は人間を有効に攻撃する手段を探るために、自らに偽の記憶を植え付け、人間に変身していたのだ。 
 明は、もちろん、「新しい時代に生きてくれ」という、このサタンの説得に応じない。
 理性をもつ人間であることに固執する彼は、デーモンの一員となって生きることを潔しとしないからだ。
 かくて、人類滅亡後の地球での、異形の者と化した不動明(デビルマン)と飛鳥了(サタン)との熾烈な戦いが描かれる。
 そして、ラスト8ページ前(第4巻318頁)で、その戦いの画面は一転する。
 美しい星空……満月が雲間から現れる。
 「月だ・・・」
 月を見上げるのは、不動明だ。
「うつくしい  明・・・月だけは数百万年前とかわっていないよ・・・ 地球はあの月よりもうつくしかったのに・・・」
 そう応じる飛鳥了は、不動明の隣に横たわっている。
 その飛鳥了にはバストがある。飛鳥了=サタンは、両性具有だったために、不動明を男として愛してしまった。そのためにデーモンたちはデビルマン軍団と戦わなくてはならなくなったとの説明が、その前にある。 
 しかし、描かれているのは、月を見上げ岩に横たわる裸の若い男女の上半身である。…いきなりここだけを見れば、艶っぽい場面と見るのが自然であるような絵だ。
 そして、飛鳥了=サタンは話し始める。この戦いのそもそもの発端を。
 話は、誰が地球をつくったのかということから、始まる。
「この小宇宙は・・・・わたしの親たちがつくったんだよ・・・・きみたち人間は神と呼んでいたね  そして彼らはこの辺境の小宇宙に生命をふきこんだ  地球は生命にみちあふれ いろんな生物がそだっていた」
 地球を作ったのは、神だったのだ。
 そして、その数億年後、神は、自分たちの意図通りに進化しなかったとして、このような判断を下した。
「神はこの小宇宙を無にかえすことにきめた!  すべてを消すことによって自分たちの失敗をつぐなおうとした! わたしはいかり反抗した」
 デーモンが、神によって抹殺されようとした時、サタンは戦わずにはいられなかった。もともとサタンは最高位の天使であり、神の側に属するものである。しかし、サタンは神を裏切り、悪魔=デーモンの側についたのだった。
「自分たちが生みだした生命だから勝手に殺していいというのか  地球上の生命は生まれたくて生まれたんじゃない・・・だが 生きている!!  自分の意志で 自分の心で 必死に生きている」
 地球の支配権が造物主=神にあるという考えを、サタンは否定した。
 そして、神との戦いにサタンは勝った。だが、次なる神との戦いに備えて眠りについている間に、人間という新生物が、地球上にはびこっていた。
「ねむりからさめたとき 地球はかわっていた… うつくしいはずの地球はよごれきっていた…人間という新生物のために… わたしはゆるせなかった わたしが命をかけてまもった地球をよごした人間を!」
 サタンが守ろうとしたのは、なによりも「うつくしい地球」だったのだ。
 だから、「わたしは人間をほろぼすことにした」とサタンは言う。
 サタンは、デーモンを守るために人類を滅ぼそうとしたのではなかった。「うつくしい地球」のためである。
 地球が、本能だけの存在であるデーモンの星だったころ、地球は汚れてはいなかった。地球を汚したのは、むしろ「理性」である。「デビルマン」はその意味では「理性」を告発している。
 そして、更に注意したいのが、この後のサタンの発言である。
 サタンは、このように言うのだ。
「だが それは 神がデーモンをほろぼそうとしたこととおなじ行為だった・・・・力の強い者が強いからといって弱者の命を権利をうばってよいはずはないのにな・・・・ゆるしてくれ 明・・・・わたしはおろかだった」
 このセリフは、強烈な印象とともに、奇妙な違和感を読後に残す。
 暴力の否定…これこそが、理性の理性たるゆえん、輝かしい本来の姿ではないか?
 何と理性的なサタン! だが、実は彼(彼女)の悲劇はそこにあった。このような発言をするサタンだからこそ、不動明に惚れたのだ。
 前述したように、人間をほろぼすことに決めたサタンは、人間の弱点を探るため、人間・飛鳥了になりすました。そして、不動明を愛してしまった。男である不動明を愛したことについて、サタンは「それは・・・わたしが・・・両性生物だったから」と、告白する。
 サタンも、自分の身体によって裏切られたのだが、そのサタンが人間の中から特に「不動明」という少年を選び出して愛したのは、不動明が「正義感に燃えた理性的な少年」だったからである。初登場の時の不動明の弱虫ぶりを見るがいい。「力の強い者が強いからといって弱者の命を権利をうばってよいはずはない」というような考え方に、彼なら大いに賛同するだろう。
 その不動明は、今、サタンの隣に横たわっている。
 サタンはようやく不動明を手に入れた。 だが、その不動明は、胴体から下の部分を失っている。
「明・・・・ねむったんだね・・・・明  永劫のやすらぎのねむりに・・・・」
 サタンは涙を流す。 
 そして、地球には、すべてを無に帰そうとする「神の軍団」が降りきたる。

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(註1)初出〈週刊少年マガジン〉1972年25号〜1973年27号 → 講談社コミックス(全5巻)1973年 → 講談社コミックス(改訂版・全5巻) 1982年 → 講談社漫画文庫(全5巻) 1977年 →KCスペシャル(講談社・全3巻) 1983年 → KCDX・完全復刻版全5巻 1993年 → 豪華愛蔵版(講談社・全5巻) 1987年 → 講談社漫画文庫(改訂版・全5巻) 1997年 → 限定「ダイナミックボックス」用(双葉社・全1巻 )2000年 → スーパーベストKC(講談社・全3巻) 2000年 → KBC(バイリンガル版)(講談社・全5巻・英語対訳つき) 2002年 → 月刊「完全版 デビルマン×キューティーハニー」(講談社・全7巻)2004年 → KPC (講談社・全3巻 )2004年 →ミニコミvol.1(セガトイズ) 2006年 → KCDX・愛蔵版(講談社・全1巻 )2008年 →講談社漫画文庫(新装版・全4巻) 2009年 → KCDX・改訂版(講談社・全4巻)2012年4月現在、第一巻のみ発刊済み)

(註2)「『デビルマン』は単行本として今日まで売れ続け、ロングセラーとなった。」と、永井豪は「改訂版『デビルマン』について」(『改訂版 デビルマン』2012年4月刊所収)で述べている。

(註3)「デビルマン」にこめられた意味については、作者自身が『激マン』という作品で語っている。それはそれで興味深いのだが、ここでは宮野が『デビルマン』を読んで考えたことをもとにして論を立てている。

(註4)明にとって、美樹の本質とは「頭部」であることがわかる場面である。この美樹の頭部を埋葬する不動明を、飛鳥了が見つめるシーンが印象的である。
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