2013年12月22日

『15×24』(鼎元亨)

《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日〜8日に開催された東京での第49回日本SF大会(tokon10)を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」(東京に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ(http://blog.tokon10.net/)および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

新城カズマ
『15×24』
(集英社スーパーダッシュ文庫、2009年9月〜 12月)
評者:鼎元亨
15×24 link one せめて明日まで、と彼女は言った (集英社スーパーダッシュ文庫 し 5-1) [文庫] / 新城 カズマ (著); 箸井 地図 (イラスト); 集英社 (刊)
 新城カズマ著『15×24』は、2009年9月から12月にかけて6冊に分冊されて集英社スーパーダッシュ文庫として集英社から発行された。商品カテゴリーとしてはライトノベルとされるが、いまどき、ライトノベルだからといって予断を持つような読者はおられまい。
 15人の17歳がネット心中に向かう一人をめぐって2005年12月31日早朝から翌日2006年1月1日の日の出までの24時間に渡って東京を奔走する物語である。意図せず発された自殺の予告が、阻止せんとする者、達成させんとする者をそれぞれ走らせる。その奔走が雪崩のごとく人を巻き込んで、日常の皮膜をめくり上げて、東京のアンダーグラウンドを露わにする。
 これは東京の胎内巡りの物語だ。死を駆動力に、彼らは路上を駆け、公園に集う。彼らは家に帰れない。都市は路上と公園という器官を持つ生体機械複合体だ。家という分泌器から絞り出された彼ら細胞は、ネットと携帯という迷走神経で語り合い、路という血管を走り、公園という臓器で化合を起こし、再び迸(ほとばし)るべき脱出口を目指す。
 彼らは未分化の細胞で、労働者の消費者の遊民のヤクザの家庭婦人のアイドルの犯罪者の保安官の、可能性であり未だどれでもない。一人の死を追いかけて、自らが一部である高次生物の「死と再生」を体験する。
 この作品は古典的な「死と再生」の神話として意識的に書かれている。
 15人の主人公たちの通過儀礼だけでなく、東京という都市の誕生と「死と再生」の歴史を追いかける物語でもある。
 「とくせん」さんの神渡りから国譲りを経て江戸として誕生し、御一新と昭和の戦争という二度の「死と再生」を経て、今一度「第二の敗戦」という死からの再生を目指して更なる拡大増殖を目指す。東京という生物の神話が24時間の冒険譚にオーヴァラップして語られる。
 表面的には、主人公たちが演ったのは壮大な鬼ごっこであり、迷路巡りであり、野球であり、コンゲームであり、ダンスパーティーだったわけだが、これらすべては神事、神話的儀式と私は解釈する。死神との対話だったり、都市誕生以前の古い神との交感であったり、都市自身の潜在意識まで降下して再び意識水面まで上昇する生と性の儀式だ。彼らは自身が都市の「死と再生」を体験する。そして、その神事が執り行われる場、都市という生物の器官が「公園」だ。時としてグラウンド、時としてファミレス、ジャズバー、雀荘、秘密地下集会所だが、その機能は公園だ。「公園」で主人公たちは化合して物語を駆動する。
 都市は原野を田圃に変え、住宅に変え、道路を走らせ、市場を立て、工場を造り、オフィスビルを築く。しかし公園はけっしてその余地ではない。「なりなりてなりあわぬところ」に見えて、それは神話的器官として、あるいは性器として分化形成されるのだ。
 「公園」という器官を備えて初めて、そこは都市になる。東京の大都市たる所以は、その軟らかい組織を内包する事、「内包するべき」と都市が自覚的であるところにあるのかもしれない。
 未分化の細胞は「公園」という器官で受精し、迸る脱出口を探して奔(はし)る。旅立ちは死でもある。この物語で死が東への船出で象徴されるのは興味深い。なぜ死が「西」でなく、日の本「東」なのか。それが戦後東京が誰の精を受けて生まれたのかを示すのだろう。
 ライトノベル? いまどき、あなどるような読者はおられまい。


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2013年11月25日

『帝都物語』(岡和田晃)

《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日〜8日に開催された東京での第49回日本SF大会(tokon10)を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」(東京に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ(http://blog.tokon10.net/)および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

荒俣宏
『帝都物語』
(角川書店、1985年〜、現在は新装版が角川文庫(全六巻、1995)にて入手可能、第8回日本SF大賞受賞作)
評者:岡和田晃
帝都物語〈第壱番〉 (角川文庫) [文庫] / 荒俣 宏 (著); 角川書店 (刊) 2010年、記念すべき「東京」でのSF大会を迎えるにあたり、はたしてこの奇書『帝都物語』は、いかにして読み直し(リ・リーディング)をなされるべきだろうか。
 帝都の霊的改造計画、関東大震災、二・二六事件といった近代の各種動乱を具(つぶさ)に描き出し、やがては2004年の終結に至るこの壮大なサーガは、優れた物語が皆そうであるように、しばし破綻の徴候を見せつつ、時にマニエリスム絵画のように妖しい煌めきを放ちながら、500万を越える読者を引きつけてきた。完結後もなお、サーガは江戸(『帝都幻談』、明治維新(『新・帝都物語』)と語り直され、その勢いは衰えを見せない。
 しかしながら、日本の近代化のダイナミズムを、近代の立役者それぞれに仮託し、一種の英雄(ヒーロー)に見立てて進む『帝都物語』は、往々にして、フォーミュラ・フィクションと見なされてきた。すなわち、尽きることなき魅力を有した蛮人の冒険を躍動的な文体で描いた『征服王コナン』(ロバート・E・ハワード)や、RPGの代表作『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の世界を舞台にした『ホワイトプルームマウンテン』(ポール・キッド)の翻訳に代表されるヒロイック・ファンタジー紹介の第一人者によってあつらえられた、定型としての物語の集積だと見なされてきたのだ。
 あるいは、知に伴う「矛盾」への対峙を主軸とした『アントライオン』、宗教図像学と生命科学の謎に歴史性を絡ませ解析する『レックス・ムンディ』といった小説群の文脈をふまえ、隠秘学や博物学の大家ならではの、絢爛豪華なバロック性や蠱惑的な衒学性は、『帝都物語』の特徴として、しばしば語り草となってきた。
 だが、ここで、ウィリアム・ギブスンとブルース・スターリングの共作である『ディファレンス・エンジン』を置いてみよう。「サイバーパンク」の旗手と書記長は、活動に意味性を付与する初期の仕事を終えた後、サイバースペースや現代政治の状況から一転し、蒸気オルガンや差分機関からなるもう一つの近代史へ遡行した。サイバースペースの彼方を知るためには、いまいちど過去へ向き合わねばならない。カール・マルクスがアメリカでコミューンを立ち上げた未来、福沢諭吉が蒸気エンジンを輸入しようとした未来を夢想せずして、テクノロジカル・ランドスケープの明日を描くことはできない、というわけだ。荒俣とサイバーパンクは、意外な取り合わせに見えるかもしれないが、『帝都物語』の歴史観には、驚くほど『ディファレンス・エンジン』に近い部分がある。
 『帝都物語』を開いて奇門遁甲(きもんとんこう)や神字(かむな)を見るとき、私たちはそこに、知らず、言語学からエントロピーまでを射程に入れた『理科系の文学誌』の著者の残響を聞き取ることができる。
 とすれば、『帝都物語』が描きださなかった、もう一つの「帝都」がぼんやりと見えてくるとは思えまいか。『帝都物語』に記された“以降”の時代を生きる私たちは、思わぬところで『帝都物語』に流れていた固有の血潮、いや、遺伝子を(再)「発見」することができるのではないか。荒俣はしきりに『帝都物語』と阪神・淡路大震災の奇妙な照応へ言及したが、それはあくまで一例にすぎない。『帝都物語』の作者が、『妖精族のむすめ』(ロード・ダンセイニ)を翻訳し、工業化の波に覆われゆく近代の最中の、ほのかな幻想を提示する繊細さがあったことを忘れてはならないだろう。
 その公告屋は、遠い丘の上に立つ大聖堂の高楼を見つけたとき、その風景をつくづく眺めて泣いた。「ああ」と彼はいった。「これがもしも『とってもおいしくて栄養満点、 あなたのスープにもぜひお試しください。ご婦人も大歓びなさるビーフオの牛肉』の宣伝に使えたらな……」ロード・ダンセイニ「五十一話集」(『妖精族のむすめ』所収、荒俣宏訳)

 若き日の荒俣宏は「苦悶と愉悦の幻想軌跡」なるダンセイニ論において、このアイルランドの貴族作家の探究(クエスト)ロマンスを〈時との死闘〉と呼んでいるが、これほど『帝都物語』の全体を貫く主題として似つかわしいものはない。荒俣がダンセイニの読み直(リ・リーディング)を試みたように、〈時との死闘〉がもたらしうるものが、何であるのかを私たちが把捉しえた時、ヒロイック・ファンタジーは、RPGは、隠秘学は、博物学は、そして文学(SF)は、新たな「場所」で再起動する。『幻想と怪奇の時代』(紀田順一郎)の再来だ。
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2013年08月10日

『岬一郎の抵抗』(石和義之)


《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日〜8日に開催された東京での第49回日本SF大会(tokon10)を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」(東京に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ(http://blog.tokon10.net/)および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

半村良
『岬一郎の抵抗』
(毎日新聞社、1988年、のちに集英社文庫、講談社文庫、第9回日本SF大賞受賞作)
評者:石和義之
岬一郎の抵抗〈上〉 [単行本] / 半村 良 (著); 毎日新聞社 (刊)
 テクノロジーというものが、世界をおのが意のままに動かしたいという欲望を、その根本の動機に内包しているとするなら、SF小説もまた、テクノロジーと同様、世界をおのが夢の色で染め上げたいという、甘美かつ危険な誘惑に絶えず身を曝している、と言えよう。20世紀のスターリニズムは、党の夢を世界において実現しようと、果敢、かつ、過酷な意志で挑戦した。その意志がもたらした悪夢のような状況は、ジョージ・オーウェルに『1984年』のような作品を書かせた。ディストピアSFは、今もなお、SFおよびSF以外の作家が好んで取り上げるジャンルである。それは、SFが内包する善意に根差した暴力の危険性への、貴重な批評である。
 権力を握った者は、どこかで必ず冷静になる時間を確保し、反権力の契機を擁護せねばならぬ、と第71 〜 73代内閣総理大臣を務めた中曽根康弘は、人知れず密かに自戒していたという。これは、為政者の最低限の倫理である。だが、それにもまして中曽根という人物が興味深いのは、治者と被治者のリズムの同調といった現象をわが身に引き寄せてしまったところにある。かつて雑誌『広告批評』は、中曽根の自信に満ちた笑顔と長嶋茂雄と加山雄三の顔写真を並べて、三者の酷似ぶりを鋭く指摘し、中曽根康弘が時代の顔を担っている、と断言したことがあった(この指摘は『広告批評』最大のヒットである)。確かに、中曽根が首相の地位に在位した1982年から1987年にかけての時期、時代は中曽根的な欲望に共鳴していた。それを証する最大のモニュメントが1986年の衆参ダブル選挙における自民党の圧勝であろう。
 「ロン」ことロナルド・レーガンに身をすり寄せるヤス(=中曽根康弘)の姿に呼応するかのように、「東京」が国際都市として世界の舞台に浮上してきたこの時代、図らずも、中曽根は、SF作家の相貌を身に纏い、変貌しつつあった東京を中曽根カラーに染め上げたのだった。日本電電公社や国鉄の民営化に見られるが如く、市場原理を革命的道具に利用することで、彼は大衆の物質的欲望を操作することに成功し、古臭い理念と鈍臭くも戯れる社会党を壊滅に追い込んだ(都市の消費者の感性に追いつこうと慌てる社会党に、「社会党は愚鈍に徹しろ。中曽根(東京)の真似はするな」と、浅田彰が警告を発したのもこの頃である)。
 「正史」を王道SF作家として自信たっぷりに描いていた中曽根に、真っ向から対立したのが、「偽史」を妄想するジャンル「伝奇小説」の担い手半村良であった。彼の選んだ伝奇小説は、「正史」からのディタッチメントを試みようとする。中曽根総理の時代に書かれた半村の『岬一郎の抵抗』は、中曽根色に染まりつつあった「新東京」への抵抗を試みる作品である。プラザ合意後の中曽根の経済政策と連動しながら、東京の風景はこの頃、大きく変容した。東京のみならず、日本全体がバブルの空気に包まれ、東京とは異質の原理を貫く他者が消滅し、すべてが東京化しようとする状況の中で、半村は、ぶっきらぼうにバブル日本(SF化した東京)の他者を指し示す。それは「福井県」だ、と。つかこうへいが屈折を強いられながら、「熱海」への愛を語った(『熱海殺人事件』)のとは違って、なんの韜晦も弄することなく、80年代において福井を擁護したこと
は、今振り返っても、やはり剛毅だと言える。それは現実を見つめる半村の剛毅さでもある。こうした剛毅さをSFは、いつでも必要としている。
posted by 21世紀、SF評論 at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 東京SF大全(スーベニアブック版再掲) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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