2013年02月28日

『上弦の月を喰べる獅子』(横道仁志)


《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日〜8日に開催された東京での第49回日本SF大会(tokon10)を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」(東京に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ(http://blog.tokon10.net/)および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

夢枕獏
『上弦の月を喰べる獅子』
(「SFマガジン」1986年2月号〜 6月号、1987年11月号〜 1988年7月号、1988年12月号〜      
6月号 のちに早川書房より単行本化 [1989年]、以後ハヤカワ文庫、第10回日本SF大賞受賞作)
評者:横道仁志
上弦の月を喰べる獅子 上
 東京に住む写真家・三島草平は、新宿にある高層建築「二ニコー荒ビル」で不思議な螺旋階段を見つける。暗い緑色の螺旋階段で、ところどころに鮮やかな赤い斑模様がついている。この螺旋の色は、彼の脳裏に潜む記憶を呼び覚ます。かつて取材のために紛争地帯のジャングルへと赴いたとき、彼は偶然、目の前で抵抗できないまま殺された兄妹をシャッターに納めたのだった。ジャングルの緑と鮮血の深紅の映像が、この階段に重なってよみがえる。
 しかもその事件は、草平自身に文字通りの意味で深い傷痕を残した。交戦に巻き込まれた彼は、脳を損傷して、目の前の光景に「螺旋」を見るようになったのだ。そして三島草平は「螺旋蒐集家」となった。彼は、極小の遺伝子から極大の銀河まで、宇宙を満たす森羅万象に「螺旋」を発見すべく焦がれずにはいられない。だから、彼が見つけた螺旋階段は、言わば彼自身の存在を映す鏡だ。彼は、この階段を上ることで、彼自身がひとつの螺旋となる。螺旋階段の先は、天井を突き抜けて遥かな上方の闇へと続いている。こうして螺旋蒐集家は、螺旋をたどって、螺旋と化して、天へと入り込む。そこから異世界の物語が始まる。
 しかし、この『上弦の月』の主人公は、もうひとりいる。宮沢賢治だ。彼は「二荒山(ふたらくやま)」に上って、切り立った地層の中に見つけた、螺旋形を描く巨大なオウム貝の化石に魅せられる。そして、このオウム貝の中に入り込むというかたちで、彼もまたひとつの螺旋となって異世界へと旅立つ。
 爾後の物語は、このふたりの人物が合一して生まれた「アシュヴィン」の視点から語られる。アシュヴィンは、ふたりを結びつける「縁」であり、ふたりに共通の「業」を抱えている。それは、あるいは愛する人を失うという取り返しのつかない出来事であり、あるいは自分の妹を愛するという許されない禁忌だ。つまりは、不可能性としての愛。三島草平も宮沢賢治も、けっして満たされえない愛に飢え渇いている人間、すなわち「修羅」として描かれる。ゆえに、アシュヴィンの物語は、この「修羅」を克服するための救いの物語というかたちをとる。
 「修羅」という言葉は、宮沢賢治の詩で、彼自身の業をあらわす表現として用いられている。もちろん、賢治がその言葉に託していた思いは、彼自身にしかわからない。いや、賢治自身にも本当のところはわからないのかもしれない。言葉を口にするときには、言おうとして言えなかった残余が、つまり言い切れなかった思いに対する渇望が同時に生まれる。三島草平が、恋人を亡くして以来、もう二度と知ることの出来ない彼女の「真意」に取り憑かれて「修羅」となってしまうように。しかし、恋人が生きていようといまいと、草平には彼女の真意を知ることなど出来ないのと同じで、言葉に破壊されない純粋な思いというのは、ひとつの幻想に過ぎない。言葉とはいつでも、自分の思いを裏切る言葉、自分が発したのではない言葉として生まれ出る。しかしそれは、言い換えると、言葉は人の思いに依らずに、自ずから生まれ、自ずから伝達されていくということだ。たとえば、宮沢賢治の詩にあらわれた「修羅」という言葉が、その「真の意味」は謎に隠れたままに、一種の摂理にしたがって『上弦の月』という小説に受け継がれ、新しい実を結んだように。この意味で、「修羅」はまた「みのり」に転じる可能性を秘めている。
 「二ニコー荒ビル」は、「新宿でも三指に入る超高層ビル」だと作中で説明されている。どうして「三指」と、少しためらいがちな言葉が使われているのだろう。それは、「二ニコー荒ビル」が象徴するものが「東京」という都市の風景そのものだからだ。もちろん、「二荒」という字形はふたりの修羅を連想させる。「超高層ビル」であることは天への通路を予期させる。だが、「三指に入る」という言葉は、このビルが、壊されてはまた生まれ変わっていくこの都市の際限ない変化の一端であることをうかがわせる。しかしその変化の中には、変わらないものもある。直線のようにただ前へと伸びていくのでもなく、円のようにただ閉じているのでもない。それが螺旋の描く道であり、螺旋の持つ意味だ。このようなダイナミズムをすぐれて体現しているという意味で、東京もまた、螺旋の摂理の中にある。自から生成して自己を伝達するひとつのみのりなのだ。
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2013年01月11日

『キャベツ畑の遺産相続人』(宮野由梨香)

《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞チーム有志は、去る2010年8月7日〜8日に開催された東京での第49回日本SF大会(tokon10)を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」(東京に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ(http://blog.tokon10.net/)および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

萩尾望都
『キャベツ畑の遺産相続人』
(「週刊 少女コミック」1973年15号 のちに『精霊狩り−傑作短編集』小学館文庫、『萩尾望都作品集 第10巻 キャベツ畑の遺産相続人』小学館、『この娘うります!』白泉社文庫に収録)
評者:宮野由梨香
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 舞台はキャベツ畑の中にある館。3人の女性が共同生活を営んでいる。名はジョージィ、ポージィ、プリン・パイ。ある日、彼女たちのもとに「相続すべき遺産」が送られてくる。それは…「すっかんぴんの遺児」のター・ブー少年。「かわいそうな みなしごを 寒空に追い出したり しないでしょ?」
 哀願に負けた3人は、少年と共同生活を始める。少年に正体がばれるのは時間の問題。……天井にドアがある! かぶっている帽子が突然に爆発する!! 夜中にキャベツの大群が転がりながら窓の外に押し押せる!!!
「そうそうにあの子にばれちゃったわ!  あたしたちが魔女だってこと!」
 ター・ブーは驚きながらも、いっちょまえの解釈をしてみせる。
「それ 超心理学といって 超能力のことだよ」
 だからSF。しかも東京SF。
 萩尾望都は成り立ちをこのように語る。
 ある夜、ワイワイ集って話をしていたとき、サトサマ(佐藤史生のこと。宮野註)が、「真夜中に向かいのキャベツ畑からキャベツがごろごろころがってトントンとやってきて……」
「ワー、おもしろい。その案もらっていい?」
「いいよ」というので、キャベツの転がる話が出来、いいだしっぺが、キャベツを呼ぶ魔女となったのだ。
(萩尾望都「ド・サト奇談」…佐藤史生『金星樹』解説(奇想天外社)1979年)

 当時、萩尾望都が仲間と共同生活していたアパートは、東京都練馬区南大泉のキャベツ畑の向かい側だった。
 1970年代における少女マンガの革新――例えば本格的なSFを描くこと――は、この地から始まった…とも言われる。
 萩尾望都は『精霊狩り』(1971年)の27ページ目の絵の中に、さりげなくローマ字で記している。
 WATASIWA S・F GA SUKI…DEMO "ONNANOKO" NIWA S・F GA WAKARANAINODA TO IUNODESU. HONTOKASIRA……?
(私はS・Fが好き…でも“女の子”にはS・Fがわからないのだというのです。ホントかしら……?)

 SFが書きたくとも編集者に「読者対象への配慮」を盾に阻止されてしまう。そんな事情が、少女マンガ界にはあったようだ。
 『精霊狩り』の続編『みんなでお茶を』(1974年)の冒頭2コマ目には(MOKUSITE KATARAZU BAKA NI TUKERU KUSURI WA NAI)なる書き込みが。怒りは静かに激しい。
 超能力を持つ女たちが得た遺産は、能力を持ちすぎた子どもであった。実は、ター・ブー少年こそが世界の存続にかかわる超能力の持ち主だった。能力の正しいあつかいかたを身につけられるであろう26歳まで、魔女たちが育ての親となる。
 ター・ブーは今にタブーでなくなる。魔女たちは様々なタブーに挑戦していた。うら若き女性たちが共同生活を営み創作に打ち込むのも、もちろんタブー。生殖に背を向ける行為だからだ。
 魔女3人の名の出典は「マザー・グース」である。萩尾望都は、平野敬一『マザー・グースの唄 イギリスの伝承童謡』(中公新書275)を読んで「マザー・グースがたいそう好きになった」と語っている。(草思社『マザー・グースのうた 第4集』付録「クック・ロビンは一体何をしでかしたんだ」)
 平野敬一の本の43頁には、「ジョージィ・ポージィ プリンにパイ/おんなのこには キスしてポイ」という谷川俊太郎訳が原詩とともに載っている。『ポーの一族』中の「一週間」でアランが口ずさむアレである。
 この歌詞の名前を持つ魔女たちが、黙して語らず、キャベツを召喚したり遺産相続したりして、育てあげてみせたのは“作品”という名の子どもであった。
 子どもは、キャベツから生まれたっていい。現在の我々はもちろん、それがいかにすぐれたものに育ったかをを知っている。
 キャベツは、日々、“東京”という土壌にも育つ。
 それらを愛する我々もまた「キャベツ畑の遺産相続人」である。
posted by 21世紀、SF評論 at 01:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 東京SF大全(スーベニアブック版再掲) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月26日

『K-20 怪人二十面相・伝』(佐藤嗣麻子)

《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞チーム有志は、去る2010年8月7日〜8日に開催された東京での第49回日本SF大会(tokon10)を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」(東京に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ(http://blog.tokon10.net/)および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

佐藤嗣麻子
『K-20 怪人二十面相・伝』
(2008 ROBOT、東宝)
評者:海老原豊
K-20 怪人二十面相・伝 通常版 [DVD] / 金城 武, 松 たか子, 仲村トオル, 國村隼, 高島礼子 (出演); 佐藤嗣麻子 (監督)
 「トウキョウ、大サーカス!」
 江戸川乱歩を生みの親にもつ「兄弟」、明智小五郎と怪人二十面相は、永遠のトムとジェリー。捕まりそうで捕まらない絶妙な距離を保ちながら、二人は激動の時代すらもすり抜けていく。――のだが、佐藤嗣麻子の手によって脚色された北村想『怪人二十面相・伝』においてはどうやら少し様子が違う。だいたい、そこは日本であって日本でなく、東京であって東京ではない。第二次世界大戦なき日本。華族という身分が制度として残り、貧しいものから搾取する社会。そんな上層階級を標的に、魔法のような手口で次々と盗みを成功させる怪人二十面相を、なんとしても捕らえんと執念を燃やす探偵・明智小五郎。
 そこに現れる一人の男。サーカスでアクロバティックな芸を披露する曲芸師である彼は、颯爽と登場したかと思えば、怪人の罠に見事なまでにはめられ、「怪人二十面相」として逮捕されてしまう。男の名は遠藤平吉。サーカス団のカラクリ担当・源治とその仲間の泥棒たちに助けられなんとか脱獄に成功するも、太陽の下を二度と歩くことができなくなった平吉は、平穏無事な自分の生活を取り戻すため、泥棒稼業に仲間入りする。怪人と探偵、そしてサーカス男が織り成す不思議な三角形は〜それ自体が一個の生き物のように胎動しながら物語を駆動させる。
 ひたすらに見せる映画。サーカスのスペクタクルを、平吉のアクロバットを、東京の空を、川を、海を。某アメリカン・コミックスで有名な犯罪都市を連想させるような工場の煤煙ですすけた空に、天まで伸びる勢いの羽柴ビル。そのビル内で行われる明智と羽柴葉子の結納の儀を、建物のガラス天井にへばりついて盗み撮る遠藤平吉。《見られる男》が《見る男》に反転するとき、その眼差しの先にあるものは果たして何なのか。
 良家の子女が体現するのはありえたかもしれない東京の、ありえるだろう未来の姿だ。見せる映画は、見えないものもためらうことなく見せる。解散したサーカス団の子どもが移り住んだ野上という貧民窟。「見て見ぬふりをするのは十分、大きな罪です。この子たちを助けましょう」と声高らかに宣言する葉子は、見えていないことがはらむ政治性にそもそも無頓着だった。だが葉子が《見てはいけないもの》を見れたのは、《見られる男》であり《見る男》である平吉と時間を共有したからだ。つまり平吉には見える/見えないの政治性を、軽く――はないのだが、実際には――飛び越える力が宿っている。
 さて物語から一歩退き、私たちがこの「ありえたかもしれない東京」をじっと見つめる時、そこに潜んでいる見えないものを考えてみる必要がある。戦争で焼けた史的現実としての東京が、見えないものとして、フロイトの抑圧されたものよろしく、フィルムに取り憑いているが、それはそのまま虚構的存在の怪人の素顔へと横滑りする。変装名人の怪人の素顔を私たちは決して知ることはない。仮面を脱がしても核へとたどり着かない怪人の素顔は、フィルムの背後にある史的現実そのものなのだ。もちろん映画のクライマックスでは怪人の素顔が明かされるわけだが、しかし私は怪人の素顔を受け入れることを拒否したい。だいたい物語では、怪人の素顔の交換可能性がナラティヴの心臓部に存している。そして改めて確認すれば、現実にかぶせられた薄皮一枚、怪人が被る仮面程度の厚さしかないこの皮膜に、突き破れそうでいて突き破ることのできないギリギリの強度を与えているのが、巨大な科学をイメージ化したテスラ装置であり、つまりはSF的意匠なのだ。歴史改変ものであること以外にこの作品がSF性を帯びる根拠は、ここにある。
 平吉とともに「さあ、大サーカスの始まりだ」と東京へダイブしようではないか。
posted by 21世紀、SF評論 at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 東京SF大全(スーベニアブック版再掲) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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