2012年12月11日

京フェス「狂った一頁」についてのささやかな解説(高槻真樹)

 去る10月に開催された「京都SFフェスティバル」で、「SFファンのための実験映画in京都 『狂った一頁』上映」を企画させていただいた。「狂った一頁」(衣笠貞之助監督)とは、1926年に公開された、日本映画初期の傑作で、その先進的な前衛性ゆえに今も語り草となっている。しかしながら本作品は過去に一度もソフト化されたことがなく、見る機会が極めて少ない。今回の企画は、SFとしての側面から「狂った一頁」を再評価してみようというものだった。

狂った一頁1.jpg

 この映画の舞台は精神病院。サイレント映画ではあるが字幕の形でもセリフは一切なく、患者たちの精神世界をはじめとする様々な妄想を特撮を駆使して具現化しようという大胆な作品だ。大正十五年にこのような映画が存在し得たということに驚かされる。夢野久作の「ドグラ・マグラ」(1935)にも比肩する(制作年代はこちらがはるかに早い)野心的内容だ。その特撮を手がけたのは若き日の円谷英二(当時は英一名義)、脚本は後にノーベル文学賞を受賞する川端康成。無声・無字幕という尖った表現形式を取っているため、ストーリーはいささか判りにくいが、それはある程度意図されたものでもある。虚構と現実の境界を打ち消していくことを目指した作品であるからだ。
 そんなわけで上映当日は作品の背景についてある程度の説明を加えたものの、具体的なストーリーについてはあまり触れなかった。あまり先入観を持ってほしくなかったためである。

 ただその後あちこちから「わかりにくい」という意見をいただいた。まさしくイメージの奔流というべき本作品を前に、何のヒントも与えないのはさすがに不親切かもしれない。そこで今回は、「狂った一頁」を見るにあたっての手がかりとなりそうな事柄をまとめてみた。もちろん未見の方もいるだろう。興味を持たれたら、少ない機会を逃さずぜひ見ていただきたい。東京のフィルムセンターか京都の京都文化博物館で時折上映されている。

◇ストーリーについて

 川端康成の脚本が理解の手助けとなるだろう。ただし、「2001年宇宙の旅」の映画本編とクラークのノヴェライズの関係のようなもので、基本的には別物と考えたほうがいい。川端がいったん脚本を書き上げてからそれをもとに撮影がなされたのではない。衣笠監督らスタッフと川端が話し合って場面ごとの簡単なメモをつくりそれをもとに撮影を進められた。そのメモを最後に集め川端がまとまった形に仕立てなおした。つまり川端の脚本が完成したのは映画撮影終了後ということになる。
 脚本は、新潮社の35巻版「川端康成全集」の第2巻に収録されている。無声無字幕映画であるから当然セリフはなく、冒頭部分を抜き出してみると

「夜。脳病院の屋根。避雷針。豪雨。稲妻。」

 といった具合で、まったくの場面の羅列。それでも映画の内容がたちどころによみがえるのだからさすがというほかないのだが。そしてこの脚本版を読むと、この作品にはより具体的なストーリーがあったことがわかる。

 主人公の老人は精神病院の小使い(用務員)だが、もとは海外航路の船員だった。家庭を顧みず妻にも平気で暴力をふるうような男で、絶望した妻は幼子を連れて無理心中をはかるものの上の娘に止められて失敗、子供だけが死ぬ。残された妻は精神を病み、病院に収容される。責任を感じた男はその病院の小使いとなり、妻を気遣うが、妻は夫の姿すらわからず、妄想の中に閉じこもっている。娘も時折病院を訪ねてくるが、気まずい時間をすごすだけに終わる。そんな或る日、小使いは縁日の福引で一等の箪笥を引き当てる。喜び勇んで病院に戻るが、気がつけばそれは夢。目覚めた小使いは、娘から縁談が破談になったと聞かされる。絶望した小使いはせめて妻を病院から逃がして罪滅ぼしにしようとするが患者たちの暴動を引き起こしてしまう……と、これも小使いの妄想で、気がつけば変わらない日常が続いている……。
 とこのようにストーリーを書き出してしまうとなんとも陰鬱でSFらしさもほとんどないのだが、ここに何重にも患者たちの妄想世界が絡み合い、小使いの夢や妄想と融合していくので、どこまでが現実なのかわからなくなってしまう。冒頭からして嵐のシーンがそのまま舞踏家の妄想ダンスへとつながっていき、小使いの妻の妄想から小使いの登場へと、切れ目なくつながっていく。イメージとイメージがリンクして融合する。どこからどこまでが誰の妄想なのかも分からない。
 映像として展開されたものは、疑いようもなく壮大な精神の迷宮を形作っていた。ラストシーンも一見「夢オチ」にしか見えないのだが、そこに揺さぶりをかけるような演出が施されている。患者の男から共犯者のような目配せを受けたり、いつの間にか鉄格子で阻まれ病院の奥へ行けなくなっていたりと、妄想にすぎなかったはずの出来事の痕跡がそこかしこに残されている…と…いう形で映画は幕を閉じる。

◇作品のSF性

 おそらく衣笠監督も川端康成もSFを撮っているというつもりはほとんどなかっただろう。実際、かなり真剣に探してみたものの戦前の日本映画界にSF映画といえるものはほとんどなく、太平洋戦争直前になってようやくぼつぼつと出てくる程度だった。つまり本作品は極めつけに早い。
 衣笠監督が手本としたのは、当時最先端でもてはやされていたドイツ表現主義映画で、フリッツ・ラングの「メトロポリス」を挙げるまでもなく、多数のSF映画がドイツ表現主義の枠内で制作された。つまり衣笠は「前衛」という最先端の表現を目指した結果、最先端の科学的思考も取り込み、SF的表現に近づいていったということなのだろう。
 虚構と現実を区別する手段として「脳」という極めて科学的な手段に着目したことは評価されていい。もちろんこの端緒は、明治初期、落語家の三遊亭円朝が手がけた怪談「真景累ヶ淵」に発する。真景とはすなわち神経。つまりおどろおどろしい江戸文化的な怨念怨霊も、正体は気の迷いに発する幻であり、作り事としての怪談を自覚的に楽しみましょう、というメタフィクション的な仕掛けが施されていた。しかしながらこれですべてが判った気になるのは大間違いだった。その後脳科学の研究が進むにつれ、「幽霊」だけでなく、われわれが「日常」と思い込んでいることすらもが脳が外部世界を勝手に解釈した結果生まれた幻である可能性が立ち現れてしまう。科学によっていったんクリアになったはずの現実が再び不確かになる。そのゆらぎを積極的に作品内に取り入れていこうとしたのが本作品だった。
 脳という媒体を通して現実を見ることで、現実はたちまち曖昧で不確かなものと暴露されてしまう。最新の脳科学を取り入れ、その仮説をもとに現実に対する揺さぶりをかける。これは立派なSF的思考であろう。しかも特撮という、当時まだほとんど意識されていなかった技術をいち早く駆使して、精神病患者の視覚を具現化しようとしたことは注目しなければならない。「アンダルシアの犬」(1928)などシュルリアリストたちの映画よりもさらに早いのである。
 最初に特撮を駆使して患者たちの妄想世界を見せる。続いて主人公の小使いの夢や妄想を見せる。気がつけば両者はほとんど区別がつかないことが判明してしまう。
 患者たちの妄想と主人公である小使いの男の夢や回想が区別されず並列的に描かれていくため、登場人物たちの内面と外的世界の境目はどんどん曖昧になっていく。このような表現は後にニューウェーヴSFが用いたものだ。その世界を作り出すために円谷特撮が使われたというのはSFファンにぜひ知っておいてもらいたい。

◇円谷特撮の原点

 どこが特撮なのかわからない、というので後で話を聞いてみると「特撮=ミニチュア」だと思い込んでいる人もいて驚いた。確かにそういう撮影は残念ながらない。舞踏シーンの不可思議なセットは印象に残るが。ただ、それ以外でも後の円谷特撮に生かされていく様々なアイデアがたくさん詰まっていることは強調しておきたい。
 やわらかい金属鏡に人物を映し、ぐねぐねと捻じ曲がっていく姿を撮る、などというのは代表例だろう。特撮としてはごく素朴なものだが、これを「精神病患者の視覚」として見立てた想像力はすばらしい。

狂った一頁2.jpg

狂った一頁3.jpg

 多重露出やアニメーション・広角撮影などを組み合わせることによって、夢幻的世界が立ち現れる。ひとつひとつの技術は単純でも組み合わせることでより幅広い表現ができることは、冒頭の嵐のシーンなどで十分に理解できるだろう。
 逆にそれほど凝ってはいないが印象的な技法として、薄いガーゼを張り巡らせた場面を挙げることができる。患者をガーゼの手前、医者や看護婦を後ろ側にして歩かせることで、患者たちが孤立し、医師たちが靄の彼方にいるような独特の光景が形作られた。

◇映写速度の謎

 この作品には、二つのバージョンがある。京フェスで上映されたのは、現在もっとも普通に見られるタイプのもので、71年に再発見された時に作られたサウンド版である。監督自身の手で作られたものだけに、無下に否定することもできないし、付け加えられたサウンドはかなり迫力がある。ただ、映写スピードは1秒間24コマで、1926年当時に封切られたバージョンとはかなり印象が異なる可能性がある。サイレント全盛期である当時の映写機は手回しで、16〜18コマが主流だったからだ。衣笠監督は1秒間18コマで撮影したと証言しており、実際にその速度での上映も過去に何度か実施されている。私も見たことがあるが、よりゆったりとした動きになり、画面に艶が出てくる。
 京フェスの直後にも、京都文化博物館にて、18コマでのライブ演奏付き上映が試みられ、ふたつのバージョンの差異を比較検証するはずであった。だが演奏を担当した小池照男・増田まもるの両氏は「何かがおかしい」とどうしても納得がいかない。そこで試みに当時の京都撮影所の伝統であった一秒間16コマで映写してみたところ、瞬時に問題が解決してしまった。
 たった2コマの差異だが16コマで映写された「狂った一頁」はまったくの別物で、前衛的ではあるがより豊かな物語性を持っていた。18コマ・24コマ版ではバラバラに解体されていた物語が一気につながり、ここで触れたような説明なしでも十分に楽しむことができる。
 おそらくはこの作品は間違いなく16コマで撮られている。それではなぜ衣笠監督は18コマで撮ったと思い込んでいたのか。このあたりはそれなりに推理できるのだが、本稿の主旨から逸脱するものでもあり、別の機会にまわすこととしたい。
 ただ、今回初めて上映された16コマ版が「狂った一頁」という映画の姿を大きく変えたということは記しておきたい。上映後に「思ったよりも切ない話だった」という感想が出たほどだ。およそ「狂った一頁」の感想に似つかわしくない。それほどまでに違うのである。
 24コマ版に乗れなかった人もぜひ16コマ版には再チャレンジしていただきたい。まったく別の印象を受けるはずである。目下、上映に向けて機会をうかがっているところだ。(高槻真樹)
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2012年10月16日

苔のある路……『魔法少女まどか☆マギカ [後編]永遠の物語』(宮野由梨香)

「100人のうち、16人が女の人。そのうちの4人が子ども」
 開場前の行列の前後を数えて姉娘が言った。
「わたしたちがいなかったら、13人が女で、子どもは2人だよ。男の子がいないなぁ。あと『おかあさん』もいない。あの子もあの子もお父さんと一緒だ」

         〇

 まどかの母親の名は「詢子」である。
 彼女は言(=ロゴス)に殉じた人である。
 ロゴスとは、理性のことでもある。彼女にはまどかを引き留めることはできない。
 その結果、彼女は娘を失う。自業自得とあえて言おう。


         〇

 これは[前篇]を見た時から気になっていたのだが、今日、[後編]を見て改めて確認した。
 DVD版の見滝原市と、映画版の見滝原市は、明らかに違う土地だ。
 その違いは、まどか達の通学路を見れば明らかである。映画版では、路に苔がある! DVD版にはない。路にはブロックタイルが敷かれていて、雑草も生えないという感じなのだ。だから、DVD版での見滝原市は、いかにも「歴史のない土地」という感じがする。
 映画版では苔があるばかりか、樹齢が数百年ありそうな樹も描かれていた。
 また、上条くんの家は、DVDでは単なる「お金持ちの家」ふうであったが、映画版では「旧家」のたたずまいを見せていた。
 こういった改変が作品にもたらす意味は大きい。作品の問題提起が単なる「新興の土地」の問題に留まらないことを示している。
 だからこそ、[後編]に新たに付け加えられた「墓場」と「歩むほむらと木々のシルエット」の持つ意味は大きいのであるし、それは[前編]のラストに付け加えられた画像とも、つながりを持つ。

         〇

 娘に「『まど☆マギ』について本を書いて」と言われて、DVD版をもとにこんなふうな構成表を書いてみたことがある。

構成 (各章10〜13枚)(全体で230枚くらい)
はじめに
目次
序(オープニング)壊れた世界
        とっくに世界は壊れている
第一章 目玉焼きとは固焼きですか? それとも半熟ですか?
        それは、食べ物に失礼です
第二章 そのテがあったか!
        社長の椅子も、単なる手段
第三章 女の子をせかす男子は嫌われるゾ
        魔法少女になるって、つまりは…
間奏曲(また、あした)近くて遠い
        言葉なんて、しょせん通じないし
第四章 生きている身体なんて邪魔なだけですわ
        血のぬめりって、汚いよね。
第五章 奇跡だよね、これ。
        ぼうやは呑気でいいよね。
第六章 ゾンビにされたようなもんじゃないか!
        生きながら死んでいる身体になるということ。
第七章 その気になれば痛みなんか完全に消しちゃえるんだ
        自分の痛みがわからない人。
第八章 捨てる時が、ホント、ウザいっすよね。
        使い捨ての論理に陥るあなたこそが、既にゾンビです。
第九章 あんまりだよ。酷すぎるよ!
         私が気がつかなかっただけで、世界って、とっくにそうだったみたい。 
間奏曲(and I’m home)ひとりきりで泣く後ろ姿
         だから、野良猫を助けてしまうの。
第十章 君の祈りはエントロピーを凌駕した!
         そう、生きるとはそういうことだから。
第十一章 お願いだから、あなたを私に守らせて!
         男に言われたら、ウザいセリフでも…
第十二章 まどかっ、まどかぁ
         まどかに「歳の離れた弟」がいる理由
結び(エンディング)命をつくるのは「願い」
あとがき


 こんな感じであった。
 今は、これよりも、もう少し踏み込めそうな気がしている。
 新たに構想をたてなおして書いてみたいと思う。
 年内には仕上げたいな。

                           (宮野由梨香)


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2012年10月11日

黒猫とエントロピー……DVD版『魔法少女まどか☆マギカ』(宮野由梨香)


 既にすっかり『まど☆マギ』館と化している宮野の家であるが、1年前はこうではなかった。出窓にフィギュアもなければ、壁にタペストリーもなかったのだ。ううう。。。
 近所の店で『魔法少女まどか☆マギカ』のDVDをレンタルしてきたところから話は始まる。
 最初に見た時は、こんな感じであった。

母「行かせねえっ! 絶対に行かせないからなぁっ!!」(と、叫んで、娘を抱きしめる)
娘「あの〜、世界が滅びますけど…」
母「いいの。世界なんかほっとけばっ」
娘「でも、友達が…」
母「友達なんか、どうでもいいのっ」
娘「でも、ほむらちゃんは何度も…」
母「私だって、あんたを3回産みなおしたんだぁっ」
  (宮野は娘を産む前に2回流産している)
娘「じたばた じたばた」
母「『ワルプルギスの夜なみにうざい魔女かも』と思っただろ?」
娘「うん」

 そして、宮野は詢子さん・知久さんを罵倒し、和子さんを非難した。なぜって、何度くりかえしてもまどかが「魔法少女」になってしまうのは、あの連中のせいでもあるもんね。
 和子さんについては既に書いたがhttp://prologuewave.com/archives/1577#extended、あの関白亭主と良妻賢母の性別を単に逆転させただけの夫婦も問題だらけだ。しかし、まあ、彼らが悪いわけでもなく、そこが「見滝原」なんだよね。そういう意味で、とても深い問題提起をしていると思った。
 そこらへんを、じっくり考えてみたくなったので、DVDをまとめて買った。

魔法少女まどか☆マギカ 1 【完全生産限定版】 [DVD] / 悠木 碧, 斎藤千和 (出演); 新房昭之 (監督)

 娘たちは、私よりも何度も何度も見ていた。その頃、娘たちの友人には『まど☆マギ』を知っている子はいなかったそうである。娘たちは熱心に「布教」に励んだらしい。(いや、単に家に遊びに来る友人たちに片端から『まど☆マギ』を見せていただけなんだけど)

 そんなある日、オープニングの最初の画像を見て、「どうして泣いているんだろう…?」
と私がつぶやいたら、姉娘が「猫が死んじゃったからだよ」と言った。
「ほら、だから、ここで、猫を抱いて笑っているでしょ? 猫を助けてもらう代わりに魔法少女になったのが一番最初のループだから、ここから始まるんだよ」
 私は驚いた。
「それ、自分で考えたの?」
「え? だって見ていれば、わかるじゃん」と姉娘(当時小6)が言った。
「うん。見ていればわかる」と妹娘(当時小4)も言った。
 そのとたん、私にもいきなりわかったのだった。つまり、そういうことだったのだということが。

             〇

 黒い猫が死んだ。
 この出来事が、『魔法少女まどか☆マギカ』という物語の発端である。
 黒猫の死によって、主人公・鹿目まどかは「疾風怒涛の時代」に足を踏み入れた。
 一輪の薔薇がすべての薔薇であるように、一匹の猫の死はすべての生命の死だ。そう、生命とは死ぬものなのだ。
 そのことに向かって、少女は泣く。肩を震わせて、しゃくりあげる。
 少女が発見したのは、「生きているものは必ず死ぬ」という条理である。
 もちろん、それまでだって知っていた。知識としてはあった。だが、目の前のひとつの死が、このようなつながりとして我が身に突き付けられてきたのは、はじめてだ(註1)。
 雨が降っている。疾風怒涛の時代の始まりを告げる雨だ。雨に濡れつつ少女は涙を流す。
 少女の落とす二滴の涙の波紋が静かに広がる。
 少女の向こう側に木々の緑が、そのまた向こうには高層建築のシルエットが浮かびあがる。少女が棲む「世界の最先端建築の粋を集めたハイテク未来都市、見滝原市」である。
 
          〇

 SF作家、アイザック・アシモフは、科学解説書の執筆の方でもすぐれた著作を多く残している。
 名著との呼び声高い『物理とはT 運動・音・熱』(註2)で、アシモフは「熱力学の法則」についても説明している。言うまでもなく、熱力学の第一法則とは「エネルギー保存の法則」のことであり、第二法則とは「エントロピーの法則」のことである。
 アシモフは、この法則についてまずひととおり説明してから、次のように書いた。

 宇宙ということばを使えば、熱力学の法則はつぎのように最も一般的に述べることができる。つまり第一法則は、宇宙の全エネルギーは一定であるということができ、第二法則は、宇宙の全エントロピーは増加し続けているということができる。(三一六ページ)


 そして、このページの説明には、次のような脚注が施してある。

 たとえていうと、第一法則では君は勝つことができない≠ニ述べており、第二法則は君は引き分けにすることもできない≠ニ述べているといえる。(三一六ページ)


 このアシモフのたとえを、生命と死との戦いにあてはめて、言いなおしてみよう。

 生命は死に勝つことができない。また、引き分けにすることもできない。


 このようになる。
 生きるというのは「勝つことも引き分けにすることもできない」戦いを続けることだ。
 インキュベーターのキュゥべえは、魔法少女からエネルギーを得るシステムについて、次のように説明した。

「君たちの魂はエントロピーをくつがえすエネルギー源たりうるんだよ。とりわけ最も効率がいいのは、第二次性徴期の少女の希望と絶望の相転移だ」(第九話)


 この「エントロピー」という言葉も、正確な物理学の用語というより、アシモフが用いたような「たとえ」の表現に近いと見るべきであろう。
 我々の魂がエントロピーをくつがえすエネルギー源たりうるのは、我々がいずれは死を迎えることを知りつつ生きるものであるからだ。生きるとは、もともと理不尽なものなのだ。(註3)
エネルギー源として「第二次性徴期の少女」が「最も効率がいい」という理由は明らかである。この時期の少女は死と対峙しながら、新たな人間の命をはぐくむ可能性のある自分の身体を肯定しなくてはならないからだ。これには、超弩級の理不尽さが要求される。
 それがゆえに、少女は受難を強いられる。きわめて快適な「条理」に満ちた「世界の最先端建築の粋を集めたハイテク未来都市、見滝原市」の中で。

        〇
 
 ハイテク未来都市は「死」を隠蔽している。
 だから、死は突然、少女の前に立ち現れる。
 生きるとは何か、世界とは何か、人間とは、女性とは、すべての問題がお互いに絡み合い、束となって少女を襲う。そして、その絶望的な解答を前に、少女はただ泣く。
 避けようのない滅びも嘆きも、私には覆せない。
 そのための力なんか、私には備わっていない。
 でも、せめて、もう一度、猫を抱かせて。生きている黒い猫をこの手で抱かせて。
 条理に逆らうその祈りは「エントロピーを凌駕」(註4)した。 
 インキュベーターのキュゥべえが近づき、「僕と契約して、魔法少女になってよ」と少女にささやく。……これが、第一のループにおいて起こったことである。
 キュゥべえとまどかの間に交わされた一番最初の契約は、こうして成立した。
 オープニングのラスト近く、まどかは黒い猫を抱いて、青空の下で笑っている。その目から泣いた残りの涙のしずくがツーッとこぼれる。
 目の前の猫の死を、そのまま見過ごすことが、まどかには出来なかった。それを「仕方のないこと」として受け入れるのは、自分自身の生きている根拠までをも脅かすのだ。
 そこにつけこむのが「インキュベーター」である。
 物語の発端がこのエピソードにあるというゆえんである。すべては、そこから始まった。
 
         〇

 暁美ほむらにとっては、まどかからこの話を聞いたことが発端となった。
「クラスのみんなには、ナイショだよ!」と言って矢を放つまどかの姿に、ほむらは魅了された。
 しかし、それだけでは「ほむらちゃんもカッコよくなっちゃえばいいんだよ」というまどかの励ましが、ほむらの絶望に対して効力を持たなかったのと同じく、決定的なものとはならなかった。
 だが、まどかが魔法少女になったのは猫を救うためだったことを知った瞬間、ほむらにとって、この世も、自分も、決定的に、生きる価値があるものとなった。
 かくも理不尽な人がいる!
 ならば、「何にもできなくて、人に迷惑ばかりかける」(註5)でも、この世に生きていっていいんだ。そして、この世界には苦しみに耐えて生きていくだけの価値がある。
 だって、この人がいるから!
 鹿目まどかがこの世界からいなくなったら、暁美ほむらには、また絶望の淵に沈む。
 だから、何度生き直しても、ほむらはまどかをこの世に取り戻さなくてはならない。
 
         〇

 オープニングの画面に目を戻そう。
 オープニング画面のタイトルの後には、ベッドの中でうじうじしている少女の姿が映し出される。
 少女はゆううつである。思い出すのは、今まで自分がしでかした失敗の数々。
 起きる気力も、着替える元気もない。寝巻のまま、ただ蒲団にくるまって丸まるばかり……。
 突然、後ろからやさしく肩に手を回してくるのは、もう一人の自分だ。自分を慈しむ自分。第二次性徴によって、それまでとは全く違う体に変化してしまった自分を愛する自分。
 少女が疾風怒涛の雨の中をよろめきながらでも走っていくには、それが必要なのだ。
 それを得るためには、少女は他の少女によって、何回も産みなおされなくてはならない。
 この「少女たちの疾風怒涛」の仕組みを『魔法少女まどか☆マギカ』は、とても見事に語っているのだ。このような作品がこの世に生み出されたことは奇跡に近いと私は思う。
                               (宮野由梨香)


(註1)いわば、これは、まどかの「発心」の場面である。
(註2)原題「Understanding Physics 1」1966 である。引用は、共立出版の「アシモフ選集」(1969年刊)高野文彦訳・藤岡由夫監修)に拠った。
(註3)だから、生命体としての当然の反応に、キュゥべえは叫ぶ。「その反応は理不尽だ!」(第11話)
(註4)第10話でキュゥべえは、ほむらの願いをかなえる際に「その祈りはエントロピーを凌駕した」と言っている
(註5)第10話で自殺しそうになるほむらがつぶやく言葉による。

posted by 21世紀、SF評論 at 13:41| Comment(6) | TrackBack(0) | SF評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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