2014年02月16日

三岸好太郎――知覚の開拓者――(関竜司)

《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日〜8日に開催された夕張での第51回日本SF大会(Varicon2012)を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」(北海道に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト(http://www.varicon2012.jp/index.html)で連載されたものと重複しますが、単なる縮約にはとどまりません。より広い読者へ向け、SFの意義を提示する開かれた文章を目指しました。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

※プログラムブック版「北海道SF大全」再掲は、本稿でもって完結いたしました。

三岸好太郎――知覚の開拓者――
北海道立三岸好太郎美術館にて鑑賞可能;
http://www.dokyoi.pref.hokkaido.jp/hk-mikmu/
担当:関竜司
 三岸好太郎(1903 − 1934)は、北海道を代表する洋画家である。三岸は「人間の感受性は常に極めて順応的」であり、「新しい社会環境から新しい美的価値は生れる」(「転換」)とし、常に新しい様式にチャレンジし続けた画家だった。三岸が手掛けた作風は、アンリ・ルソー風のプリミティブなものから、岸田劉生風の写実、ルオー風の道化師のシリーズ、さらにはシュールレアリズムやドイツのバウハウスから影響を受けたものまで多岐に渡る。この新しい美的価値をつねに開拓しようとした精神の背後には、北海道の開拓者精神が宿っている。特に札幌農学校には、開拓時代の初期からクラーク博士の弟子たちがマサチューセッツから呼ばれ、近代的な農学・植物学に根差した品種改良や洋式農具によるアメリカ流の大農法が伝えられた。こうした農学校の開拓者精神あるいは科学に対する信頼が、道民に与えた影響の大きさは、すでによく知られている。三岸が外国の絵画の方法論(様式)を、貪欲に吸収し表現していったのも、開拓者精神・科学に対する信頼を背景にしたものだろう。三岸はSFという言葉が知られる以前から、SF精神を体現していたのである。


2014年01月25日

『ヤマタイカ』(横道仁志)

《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日〜8日に開催された夕張での第51回日本SF大会(Varicon2012)を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」(北海道に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト(http://www.varicon2012.jp/index.html)で連載されたものと重複しますが、単なる縮約にはとどまりません。より広い読者へ向け、SFの意義を提示する開かれた文章を目指しました。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

『ヤマタイカ』
作者:星野之宣
初出:潮出版社 希望コミックス版(全6 巻) 
1987 − 1991
最新版:光文社コミック叢書“ シグナル” レジェンド オブ ヤマタイカ(全5巻) 2006-2007
担当:横道仁志
ヤマタイカ (第1巻) (潮ビジュアル文庫) [文庫] / 星野 之宣 (著); 潮出版社 (刊)
 沖縄の東に浮かぶ久高島で、六十年に一度執り行われるという伝説の秘祭「ヤマトゥ・祭(マテイ)」。この神事の中で、過去の卑弥呼の意識と交感した伊耶輪神子(いざわ・みわこ)は、卑弥呼の霊力を受け継ぎ、この現代日本で、縄文人の狂乱の祭りを復活させようと動き始める。
 沖縄を発端にするこの物語がなぜ北海道SFなのか。その理由は、本作のキーワードである「火の民族仮説」という古代史観にある。すなわち、かつて南方から火山の噴火を追いかけながら環太平洋火山帯を北上して来た原日本人・「火の民族」という存在があった。しかし彼らは、渡来系の「日の民族」によって南北に分断され、追いやられてしまう。つまり本作では、北海道と沖縄は、縄文民族を共通の祖とする姉妹のような関係にある。じっさい、作中で「火の民族仮説」の解説役をつとめる人物・熱雷草作は「阿弖流為(アテルイ)」の血を引くと語られる。北海道は、いわば、本作の裏テーマなわけである。とはいえ、『ヤマタイカ』の問題意識は、アメリカを打倒すべき支配体制の象徴とすることで、縄文系と弥生系、地方と本土の対立という狭い枠組みを超え、日本という国そのものを問い直す次元にまで拡張されていく。戦争が発生する以前の自由な神話世界を取り返そうとする身振りの中で、現代の閉鎖性を打破する。そんな気宇壮大な構想を遺憾なく絵にする星野之宣の筆力こそ、この伝奇漫画の醍醐味である。

2013年12月22日

『15×24』(鼎元亨)

《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日〜8日に開催された東京での第49回日本SF大会(tokon10)を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」(東京に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ(http://blog.tokon10.net/)および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

新城カズマ
『15×24』
(集英社スーパーダッシュ文庫、2009年9月〜 12月)
評者:鼎元亨
15×24 link one せめて明日まで、と彼女は言った (集英社スーパーダッシュ文庫 し 5-1) [文庫] / 新城 カズマ (著); 箸井 地図 (イラスト); 集英社 (刊)
 新城カズマ著『15×24』は、2009年9月から12月にかけて6冊に分冊されて集英社スーパーダッシュ文庫として集英社から発行された。商品カテゴリーとしてはライトノベルとされるが、いまどき、ライトノベルだからといって予断を持つような読者はおられまい。
 15人の17歳がネット心中に向かう一人をめぐって2005年12月31日早朝から翌日2006年1月1日の日の出までの24時間に渡って東京を奔走する物語である。意図せず発された自殺の予告が、阻止せんとする者、達成させんとする者をそれぞれ走らせる。その奔走が雪崩のごとく人を巻き込んで、日常の皮膜をめくり上げて、東京のアンダーグラウンドを露わにする。
 これは東京の胎内巡りの物語だ。死を駆動力に、彼らは路上を駆け、公園に集う。彼らは家に帰れない。都市は路上と公園という器官を持つ生体機械複合体だ。家という分泌器から絞り出された彼ら細胞は、ネットと携帯という迷走神経で語り合い、路という血管を走り、公園という臓器で化合を起こし、再び迸(ほとばし)るべき脱出口を目指す。
 彼らは未分化の細胞で、労働者の消費者の遊民のヤクザの家庭婦人のアイドルの犯罪者の保安官の、可能性であり未だどれでもない。一人の死を追いかけて、自らが一部である高次生物の「死と再生」を体験する。
 この作品は古典的な「死と再生」の神話として意識的に書かれている。
 15人の主人公たちの通過儀礼だけでなく、東京という都市の誕生と「死と再生」の歴史を追いかける物語でもある。
 「とくせん」さんの神渡りから国譲りを経て江戸として誕生し、御一新と昭和の戦争という二度の「死と再生」を経て、今一度「第二の敗戦」という死からの再生を目指して更なる拡大増殖を目指す。東京という生物の神話が24時間の冒険譚にオーヴァラップして語られる。
 表面的には、主人公たちが演ったのは壮大な鬼ごっこであり、迷路巡りであり、野球であり、コンゲームであり、ダンスパーティーだったわけだが、これらすべては神事、神話的儀式と私は解釈する。死神との対話だったり、都市誕生以前の古い神との交感であったり、都市自身の潜在意識まで降下して再び意識水面まで上昇する生と性の儀式だ。彼らは自身が都市の「死と再生」を体験する。そして、その神事が執り行われる場、都市という生物の器官が「公園」だ。時としてグラウンド、時としてファミレス、ジャズバー、雀荘、秘密地下集会所だが、その機能は公園だ。「公園」で主人公たちは化合して物語を駆動する。
 都市は原野を田圃に変え、住宅に変え、道路を走らせ、市場を立て、工場を造り、オフィスビルを築く。しかし公園はけっしてその余地ではない。「なりなりてなりあわぬところ」に見えて、それは神話的器官として、あるいは性器として分化形成されるのだ。
 「公園」という器官を備えて初めて、そこは都市になる。東京の大都市たる所以は、その軟らかい組織を内包する事、「内包するべき」と都市が自覚的であるところにあるのかもしれない。
 未分化の細胞は「公園」という器官で受精し、迸る脱出口を探して奔(はし)る。旅立ちは死でもある。この物語で死が東への船出で象徴されるのは興味深い。なぜ死が「西」でなく、日の本「東」なのか。それが戦後東京が誰の精を受けて生まれたのかを示すのだろう。
 ライトノベル? いまどき、あなどるような読者はおられまい。
posted by 21世紀、SF評論 at 00:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 東京SF大全(スーベニアブック版再掲) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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