2013年04月06日

『百億の昼と千億の夜』について(宮野由梨香)

【資料アーカイブ】
 次の文章は、宮野由梨香が18歳〜19歳の時(1979年〜1980年)に、所属していた漫画研究会の会誌〈TINY〉3号・4号に発表したものである。(名義は「Yurika」となっている。)若書きが非常に恥ずかしいのだが、現代の目で見ると面白い部分もあるのではないかと思い、こちらに提示することにした。当時の読者の受けとめ方の資料のひとつとなれば幸いである。(時事的な話題で、当時は皆が当たり前に知っていたことを踏まえている部分はあえて残しましたが、現代の目からみてどうかと思われる表現等は手直ししました。また、記号や表記を統一して読みやすくしてあります。)(宮野由梨香)

1364998508586.jpg


☆『百億の昼と千億の夜』について☆
                                Yurika

 いささか古い話をするけれど……。
 私が小説のほうの『百億の昼と千億の夜』を読んだのは、高校1年生の秋。もう何というか、呆けたのよね。阿修羅王が好きで好きで。
 それから半年後、〈週刊少年チャンピオン〉にマンガ化の連載が始まったのだけど。
 それで考えたのだよ、こんなふうに。
 まず、マンガ版の方ね、原作との違いを拾っていくと、こういうふうに読める。
 マンガを描くということは正に「決して勝てず、しかも終わることのない戦い」。だから彼女にとって幸福になる道はただ1つ、「戦い(マンガを描くこと)をやめること」しかない。……彼女のまわりにいる男は雑魚か、でなければあと2種類。1つは彼女の戦い(マンガ)を理解し、彼女とともに戦う(描くことに協力する、あるいは同業者の)男。つまり、シッダルタ。彼には「私に説教してみるか」と言った彼女の悲しみが理解できなかった。(2巻206ページ。こんな会話は原作にはない。)もう1つは、彼女自身を愛し理解し戦いをやめさせようとする男。つまり帝釈天。彼には結局、彼女に戦いをやめさせることはできない。(2巻120〜123ページ。この会話も原作にはない。)彼女自身が戦うこと(マンガを描くこと)以上の情熱をもって愛することができる人物は決して現れない。まさに悲劇。
 そりゃあ誰もが山口百恵になれるわけじゃあないということは、私にだってよくわかっている。だけど、これじゃあ あまり ひどすぎる。
 同じ本を読んで同じ人物に魅かれても、全くその解釈がズレているということはあるものなのねということが、よ〜くわかった。
 では、私が小説のほうの『百億の昼と千億の夜』をどのように読んだのか、ということは、また次の機会に。
                      (〈TINY〉3号より)


☆『百億の昼と千億の夜』について・その2☆
                                Yurika

 私にとって『百億の昼と千億の夜』は、「どうせ死ぬのに、なぜ生きるの?」という質問への答えだった。
 それはさておき、「これって何?」なことがあるのよね。光瀬龍が「あとがきにかえて」で書いている経典が読みたくて捜したら、阿修羅王と帝釈天の戦いの由来って、阿修羅王の娘を帝釈天が妻として奪ったからだという話しか見つからないの。これって、光瀬龍の「つくり話」なんじゃないかなぁ。だから、うだうだとカーテンコールのことなんか最初に書いているのよ。じゃあ、どうして話を逆にして、もとの話にはない乾脱婆王だの天輪王だのを登場させたのか?
 『ロン先生の虫眼鏡』を読むと、どうやら光瀬龍って、結婚していて子供もいるらしい。ということは、「現実は逆」だから話を逆にしたんだよ。「結婚の拒否」の逆は「結婚の強要」。乾脱婆王って「婆」ってところが母親っぽい。とすると天輪王ってのは父親だね。
 でも、変だなぁ? ならどうして「天輪王のひとり娘」って書かないの? 天輪王には別に妻子がいて、一緒には住んでいないみたいな? 正式に結婚していないってこと? この世代って、ほら「男ひとりに女はトラック一杯」だから(中学校の時の社会科で習った。)、そういうのって多いよね。
 娘の身内が男に結婚を強要するって、理由は「娘の妊娠」だよね? ああ、そうか。だから阿修羅王はヘロデ王の赤子殺しを手を打って笑うんだ。
 直接の敵は帝釈天。タイシャクっていえば「貸借」だよね。身内あるいは本人に多額の借金でもあって、それをネタに強要されたのかな? そして、それを娘は何も知らないの。
 光瀬龍は、誰にも言えないことを抱えていて、嘘でしか本当のことが言えないんだ。
 だから、光瀬龍の小説は「誰にも言えないことを抱えてしまった人」の心を救うんだと思う。
                    (〈TINY〉4号より)
posted by 21世紀、SF評論 at 16:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 資料アーカイブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月13日

「人間についての謎 2」(戸川達男)

 《お知らせ》
 以前「連続講座 SFと科学01「人間についての謎」」を当ウェブログに掲載してくださった、戸川達男さまが、「21世紀、SF評論」に続編「人間についての謎 2」を寄稿してくださいました。
 この場を借りて戸川さまのご厚意に感謝いたします。
 読者の皆さまにおかれましては、広く碩学の知見をお愉しみいただけましたら幸いです。
(岡和田晃)
 動物の心人間の心 科学はまだ心をとらえていない|戸川達男|コロナ社|送料無料
動物の心人間の心 科学はまだ心をとらえていない|戸川達男|コロナ社|送料無料


 第6回日本SF評論賞選考委員特別賞を受賞された藤元登四郎氏から、受賞作品となった評論が載ったSFマガジンが送られてきたのがきっかけで、SF評論賞受賞者のブログに寄稿させていただいてから2年たった先月のこと、藤元氏からまた氏の評論が載ったSFマガジンが送られてきた。

【月刊】SFマガジン 2013年4月号
S-Fマガジン 2013年 04月号 [雑誌] [雑誌] / 早川書房 (刊)

 「神林長平「ジャムってなんですか?」−「アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風」」というタイトルは、わたしには難解だが、これに比べて普段読んでいる論文のタイトルはなんて平凡なんだろうと思った。評論の内容は正確に理解しようとすると難解だけれど、藤元氏の鋭い洞察による解説のおかげで、問題の核心がやはり人間についての謎であることがはっきりわかった。しかも、そこにはこれまで解明の糸口さえつかめていなかった謎があり、多くのSF作家の作品はその謎解きへの果敢なチャレンジだということもわかった。それに比べて、普通の科学のチャレンジはなんとスケールが小さいのだろう。
 今回SFマガジンが送られて来るほんの1週間前に、たまたま研究会で話題提供したのが、実はこのことだった。そのときの資料の一部分はこんな内容だった:
 ごく最近、些細なことがきっかけで、ハードプロブレム(難問)について再考した。あるときコーヒー用の容器入りの砂糖(マウイゴールドシュガー)を買ったところ、粒状の砂糖が固まっていて容器の蓋の小穴から出なかった。そこで箸で少しづつくずしていったところ、かなり手間がかかったが、しまいには全部の塊がくずれて問題が解消した。このことから、科学の方法論についてひとつのヒントを得た。多くの科学の分野の問題は、部分の研究の積み重ねによって全体の問題が解決する。しかし、中には解決の鍵となる糸口を見出さないかぎり、部分の知見の積み重ねが無力であるような問題があるようだ。もし意識の解明がこのたぐいの問題だとすると、小さな研究の積み重ねでは解決できない。チャーマースが意識の解明はハードプロブレムだと言ったのはこのような意味に解釈できるかもしれない。

 普通の科学者は、砂糖の塊を箸でくずしていくような研究ばかりやっているので、くずした砂糖粒の数で作業の出来高が評価されるしくみになっている。いわゆる業績目録にある論文が砂糖粒である。ハードプロブレムに取り組んでいたのでは結果が出ないので業績が挙がらない。それではいい職に就くこともできないので、しかたなくハードプロブレムは放棄して砂糖粒を崩すようなイージープロブレムにばかり取り組むようになってしまう。
 そこのところをSF作家とSF評論家の業界ではうまく処理されているように思う。SF作家は人間の謎の解明のようなハードプロブレムに取り組む一方で、作品の良さがいろいろな視点で評価されるので、謎の解明の結果が出なくてもほかの面で高い評価を得ることができるし、ハードプロブレムへの取り組みについてもそのチャレンジ自体が評価されるしくみも確立しているようだ。そうだとすると、人間の謎の解明はSF作家とSF評論家が科学者の先を越すかもしれない。
 ところで、わたしが人間の謎の解明にこだわってきたひとつの理由は、人類の未来に対する危機感からだった。いま人類は、人口過剰、地球温暖化、環境破壊、遺伝子の変質などによって近未来に絶滅するかもしれない危機に直面していることが指摘されているのに、一般の人も政治家も科学者もほとんど無関心のようなのだ。たとえば、小児麻痺の撲滅に大きな貢献をしたオーストラリアの細菌学者フランク・フェナーが「人類は100年以内に絶滅するに違いない。今から何をしてももう手遅れだ。」と語ったこと(1)がBBCなどで報道されたが、ほとんど反響がなかったとのことである。しかも、未来に危機感を持っている科学者や政治家は、ただ科学的なデータを示すばかりで、なぜ人々が人類の未来を救おうとしないのかという人間の問題に迫ろうとしていない。それがなぜなのかはやはり人間の謎のひとつのようだ。しかし、今となっては、人間の謎の解明にこだわっていてはもう手遅れかもしれないので、試行錯誤的にでも多くの人の心を未来に向けさせるような方策を試みなければならない。
 そこでまたSFが鍵をにぎるのではないかと思う。未来については不確定な事柄が多いので科学者はあまり確かなことが言えないが、フィクションであれば大胆な仮定をしてもかまわない。実際、100万年後の世界をリアルに描くことは造作ないに違いない。すでに人類が絶滅しているという設定もできるし、かろうじて少数の人が生き残っているという設定もできるだろう。100万年後に今より繁栄している世界を描くのは非現実的だが、その不自然さを逆効果に利用することは有効かもしれない。こういう世界を想像するのはハードプロブレムではないが、多くの人に受けるような作品を作るには高度のテクニックが要るに違いない。それでも、多くの人々が未来に関心を持つきっかけが作れるなら、未来の人々のためには科学者の指摘よりはるかに大きな貢献となることは間違いない。
 わたし自身は文学的才能がないのでいい作品を作ることができないが、具体例があった方がわかりやすいかもしれないので、つい先日たまたま日本心臓ペースメーカー友の会の機関誌「かていてる」に投稿した原稿「遠未来の人々のためのペースメーカー」(2)の草稿の最終章を以下に転載したい。こんな古風なスタイルではなく、もっと斬新な作品がぜひともほしいのだが、いまのわたしの力ではできそうもない。

《21世紀の人々への贈り物》
 21世紀の奇跡から100万年の時が流れ、人類はその間に数々の試練に遭遇しました。人類はもうこれで絶滅かと思われたことも何度かありましたが、幸い絶滅だけは回避することができ、今は世界人口が21世紀初頭の2割くらいで安定しています。自然環境はまだ貧弱なもので、生物種の数としては21世紀初頭の1割程度にまでしか回復しておらず、専門家は生物種の数が21世紀のレベルまで回復するにはまだ数100万年はかかるだろうと言っています。それでも、こうしていま人類が生き残っていられるのは、生命の歴史の中で最悪の大絶滅が起ころうとしていた21世紀に、加速度的に進みはじめた地球温暖化による人類の絶滅を間一髪のところでくい止めることができたあの出来事のおかげなのです。
 温室効果ガスを大量に排出すると地球温暖化が起こることは19世紀にすでに指摘されており、20世紀後半には大気中の二酸化炭素濃度が上昇しはじめていることがはっきりわかっていました。そこで、国連に調査機関が置かれ、気候変動のデータが集められ、温暖化の危険と必要な対策についての詳しい報告が何度も提出されました。それにもかかわらず、温室効果ガスの排出規制のような具体的な対策がいっこうに進まず、21世紀になっても温室効果ガスの排出は増し続けました。多くの科学者は地球温暖化の危険について熱心に訴えましたが、温室効果ガスの削減が経済に悪影響をおよぼすことを恐れて、どこの国も大胆な対策をとることができませんでした。そんな時代に起こったのがあの出来事だったのです。
 後に21世紀の奇跡と呼ばれるようになったあの出来事は、ほんの小さなきっかけで始まったのです。それは地球温暖化についての科学的なデータを示すのではなく、多くの人が環境異変によって生存を脅かされる人や生物のいのちをいとおしむ心を持つことがぜひとも必要だという指摘でした。そのことを気づかせたのは金子みすゞの「大漁」という詩(3)だったと言われています。

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。

はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。

 この詩が、世界中が経済発展を追い求めてわきたっていたときに、その陰でなすすべのない未来の人の痛みに寄り添う人がいないのだろうかという問いかけのように響いたのです。
 幸い、多くの人に詩の心を感じ取る感性が残っていました。21世紀初頭に、地球温暖化による異常気象、森林伐採のような環境破壊、環境汚染物質の海洋への蓄積などによって生物種の数が激減しはじめ、もはや手の打ちようがなくなる一歩手前まで来たとき、たまたま金子みすゞの詩に触発されてはじまった未来の人をいとおしむ心の訴えが、草の根の運動となって広がりはじめたのです。そして、その運動は「未来の人々との絆」と呼ばれるようになり、さまざまなメディアを通して世界中に広がりました。多くの人気アーティストたちは未来の人々との絆をテーマにした歌を歌ってヒットし、小説や映画をはじめあらゆるジャンルで未来の人々との絆が取り上げられるようになったのです。
 やがて、未来の人々との絆が政治を動かすようになりました。当時多くの国は民主的な政治形態をとっていると自負していましたが、そのころは成人に達している国民の投票だけですべてのことが決められるしくみになっていたのです。そのため、未来の人にどんな不都合が起ころうとも、未来の人の権利を政策に直接反映させることができなかったのです。未来の人々との絆の運動によって、その不合理性が指摘されるようになって、小さなコミュニティーのレベルから国連まであらゆる決定の場に未来の人の代弁者を加えることが義務づけられるようになりました。はじめは未来の人の代弁者が加わってもごく少数の場合が多かったのですが、やがてその数が増し、国連をはじめ多くの国の議会でも未来の人の代弁者が半数以上を占めなければいけないとする原則が定着していきました。こうして人類の存続をつねに最優先にするルールが確立したのです。
 いま、21世紀の人々が100万年後のわたしたちに残してくれたものが何だったのか、冷静に考えてみたいと思います。これまでに多くの人が自然環境の大崩壊をまねいた張本人だとして21世紀の人たちを糾弾してきました。たしかに、環境危機が予測されていたにもかかわらず、しっかり対策をとらなかったことは疑いない事実です。けれども一方では、環境危機が進行してまさに生態系の完全な崩壊が近いという時に至って人類を絶滅から救ったのは、21世紀に起こった「未来の人々との絆」の運動だったこともまた事実なのです。もしあの出来事がなかったなら、わたしたちはこの世に存在することはなかったことは確かです。
 わたしたちのいのちは、生命の歴史の中で偶然に生き残ったいのちではなく、21世紀の人々の心からの贈り物なのです。未来の人々との絆の運動に立ち上がった21世紀の人々は、何の見返りも期待せず、感謝の言葉さえ聞くことがないとわかっていながら、遠未来の人々のために献身的に活動しました。わたしたちはいま、その人たちに直接に語りかけることはできませんが、私たちの心の絆の中で感謝の思いをこめた言葉を贈りたいと思います。
 21世紀の皆様、わたしたちがこの世に生まれてくる機会を与えてくださったことに心から感謝します。そして、こんなに長い時間の隔たりを越えて心の絆をしっかりと結び合う知恵を与えてくださったことに感謝します。この宝の重さは、失われた環境の重さより重いものです。わたしたちはこの知恵によって、さらに何百万年、何千万年も人類が存続し続ける希望を持ち、日常の不便をしのんでも未来の人々のために喜んで活動することができるようになりました。わたしたちは、ただ人類の存続だけではなく、未来の人々の心がもっと豊になることを願っているのです。そのためにこそ、わたしたちは未来の人々のために活動しようと誓うのです。そしてこの誓いを21世紀の人たちへの心からの贈り物として心の絆を通してお贈りしたいのです。

 これまでの論旨を要約すると、科学の問題にはイージープロブレムとハードプロブレムがあり、科学者のほとんどはイージープロブレムにだけかかわっていること、人間についての謎にはハードプロブレムが多いこと、人類の未来を救うためにはハードプロブレムの解明が望ましいこと、SF作家やSF評論家はすでにハードプロブレムへのチャレンジを行っていること、および、たとえハードプロブレムが解明されなくても優れたSF作品によって人々の心を未来の人類の救済に向けることができるに違いないこと、である。「SFが人類を救う」ということはフィクションの世界の話しではなく、現実に起こりそうなことのように思えてならない。

【注釈】
1. Firth N, Human race 'will be extinct within 100 years', claims leading scientist, Mail Online 19 June 2010
2.戸川達男、遠未来の人々のためのペースメーカー、かていてる、 44:2, 2013 近刊
3. 金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと JULA出版、 1985
posted by 21世紀、SF評論 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | SF評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月11日

『魔の国アンヌピウカ』(岡和田晃)

《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》
 日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日〜8日に開催された夕張での第51回日本SF大会(Varicon2012)を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」(北海道に関したSF作品のレビュー)を寄稿しました。
 それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト(http://www.varicon2012.jp/index.html)で連載されたものと重複しますが、単なる縮約にはとどまりません。より広い読者へ向け、SFの意義を提示する開かれた文章を目指しました。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)


『魔の国アンヌピウカ』
作者:久間十義
初出:新潮社 1996
最新版:(初出に同じ)
担当:岡和田晃
魔の国アンヌピウカ [単行本] / 久間 十義 (著); 新潮社 (刊)
 本作『魔の国アンヌピウカ』においては、UFOとユーカラという相容れないようにも見える二つの要素が、見事に「習合」させられている。浮かび上がるのは、アイヌ問題と観光産業が複雑に絡まり合った、北海道の近代化に伴う二重の歪みだ。本作ではアイヌの聖地「アンヌピウカ」とUFOの目撃騒動がストーリーを牽引していく。この「アンヌピウカ」のモデルは、平取町のハヨピラ自然公園である。アイヌに文化を伝えたオキクルミというカムイ(神)がシンタと呼ばれる飛行物体に乗って飛来したとの伝承が残るこの地には、1960年代の後半から、とあるUFO研究団体(作中の「エーテル奉仕協会」のモデル)の施設が存在していた。当時の平取で暮らしたアイヌ初の近代小説の書き手である鳩沢佐美夫は、同胞が観光産業従事者として怪しげなUFO研究団体の片棒を担いだことを批判した。鳩沢が告発した「観光アイヌ」の問題は、本作においては、バブル期の第三セクター主導における大規模なリゾート開発という形で――つまり高度資本主義下の状況にて――再帰的にシミュレートされていく。柴野拓美はSFの定義として「テクノロジーの自走性」を挙げたが、本書では、SFを可能にした近代の原理、すなわち人間の不定形な欲望そのものの自走が北海道の政治的現実を軸に描かれる。SFの脱政治化が浸透し、深刻な問題となっている今だからこそ、読み直されるべき傑作だ。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。