雑誌〈ナイトランド〉第7号(平成25年秋号・2013年9月20日発行)に、光瀬龍氏の短編「哨兵」が再録された。

〈ナイトランド〉第7号
「哨兵」の初出は〈野性時代〉1980年12月号。単行本未収録の作品である。
「幻視者のためのホラー&ダーク・ファンタジー専門誌」である〈ナイトランド〉に、この作品が再録されたことは、私にとってなかなか心騒ぐ出来事であった。「哨兵」に関してホラーめいた奇妙なエピソードが、私にはあるからだ。
「哨兵」の前半の舞台は東京であり、語り手の中学生時代の不思議な出来事が語られる。
転校生の少年Aの家を訪ねた中学生時代の語り手は、全く生活感がない部屋の中に乳母車を押す美しい少女を見る。Aは語り手に「今日この家に爆弾が落ちる」と予告し、帰宅を促す。予告通りに爆弾は落ち、語り手はそれからAに会うことはなかった。
後半は、山梨県の県庁所在地・甲府市が舞台となる。語り手は作家になっていて、中学生の時のこの体験を、「長篇の単行本のあとがき」に書く。それをきっかけに、少年Aに関する断片的な情報が集まりはじめる。そこには「甲府」という地名が頻出する。一昨年、「甲府駅前の繁華街の喫茶店」で往時の姿のままの少年Aを見かけたと言う証言。また、昭和24年に甲府でAに会ったという同級生。語り手は興信所に依頼する。興信所は「甲府市相生町に居住」という調査結果を示し、それ以上の報告を拒む。調査員が甲府市内の荒川で溺死体で発見されたためだ。語り手は、自ら甲府市を訪れ、なんと、別れたあの日と全く同じ姿のままの少年Aに会う。
ネタバレになるので、これ以上は書かないが、怪異の中に読者を突き放すかのようなラストが印象的である。
実は、この作品が書かれた1980年、私は甲府市の住民だった。そして、この年に2回、甲府市で光瀬氏とお会いした。「『百億の昼と千億の夜』の「あとがきにかえて」に出てくる経典のタイトルは何ですか?」と私が光瀬氏に質問したのも、甲府市においてだった。(この質問の意味については
http://sfhyoron.seesaa.net/article/374020151.html )
野性時代 1980年12月号
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光瀬氏は、1980年6月14日(土)に、甲府市武田にある山梨大学の学園祭で講演をおこなった。会場は、工学部の西門を入ってすぐの一階にある「T01」という教室だった。教室は階段状になっていて、かなり広かった。入り口は、前と後ろの二か所だった。
私は演壇の上にオレンジ色の百合の花を生けた。花器は家から持って行った。紺に臙脂の入り混じった厚めの色ガラスのものだった。飾る許可は、学園祭の実行委員長から得ていた。
教室のほぼ中央に座って始まるのを待っていると、前の方の入り口から父が覗いた。私は驚いた。当時、私の父は山梨大学の教授だった。しかし、父の研究室は東の外れで、講演会場からは離れていた。しかも、その日そこにいることを、私は父に告げてはいなかった。むしろ意図的に隠していた。父はSFが嫌いだった。『百億の昼と千億の夜』の「寄せてはかえし/かえしては寄せる波の音は、何億年もの、ほとんど永劫に近い昔から、この世界をどよもしていた。」という冒頭について「永劫に近い昔だって? 地球の海ができたのは、現在の説だと……」とツッコミを入れるような人だった。(参考:
http://blog.tokon10.net/?eid=1067665 宮野の反論:
http://blog.koicon.com/?p=934)
何事かと近付いていった私に、T01教室のドアの横の表示を示しながら、父は言った。
「この教室の管理責任者なんだよ。何かイベントで使うときは、見に来なくっちゃならないんだな」
そこには、確かに父の名前が書かれたプレートが貼られていた。「え?」と思う間もなく、父は光瀬氏に挨拶し、私をさし示して「娘です」と言った。思いもよらぬ成り行きに、私はただ唖然としていた。
講演のタイトルは「SFとその周辺」だった。録音が禁止されていたので、音声資料は残っていない。さまざまな興味深い話が語られたが。私にとって一番印象的だったのは、日本SFの成立における安部公房の評論の果たした役割がいかに大きかったかという話だった。(参考:『しずおかSF 異次元への扉』(静岡県文化財団)27〜30頁「仮説の文学」)
「『百億の昼と千億の夜』の「あとがきにかえて」について私が光瀬氏に質問したのは、この日のことである。

【山梨大学 学園祭パンフレット】

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1980年の頃、SF専門誌は5誌あった。そのうちのひとつ〈SF宝石〉に、光瀬氏は「あいつらの悲歌」という作品を連載していた。
甲府市での光瀬龍の講演から数週間後だっただろうか。〈SF宝石〉の1980年8月号を見て、私は驚いた。作品の中で甲府市が滅亡してしまっていたからだ。

〈SF宝石〉1980年8月号
それは、こんなふうに書かれていた。
真夜中ごろ、甲府盆地へ入った。
闇黒の底に、死と静寂が沈んでいた。
一面の星空に、南アルプスの山々が黒い影となって連なっていた。
ふいに、貢は自分の目的地を悟った。東京をあとに、西へ向かってジープを走らせて来たのは、心の中に自分でも気がついていない目的地があったからなのだ。
この前、ここへやって来たときは、甲府盆地は灯の海だった。甲府の市街はまだ完全に生きていた。
貢はあれから五年も十年もたったような気がした。遠い記憶の中のできごとの一部分のようにも思えた。
(「あいつらの悲歌」第6回 〈SF宝石〉1980年8月号128ページ)
私は、心の底から冷えあがるものを感じた。甲府の夜景なら何度か見たことがある。そが真っ暗で、星が見えるだけなんて。
ショックだった。日本が沈没しても、地球が滅亡しても、宇宙が熱量死しても、私はこんなにショックではなかった。
そこで、まず「ショックだった」という内容の手紙をまず作者に書き送ったような気もするのだが、違うかもしれない。確実なのは、次にお会いした時に直接「甲府市が作品の中で滅びたのを読んだときは、ショックでした」と告げたこと、そして、大笑いされたことである。
そう、その時のことを語ろう。
1980年の11月27日の晩、「明日、会えませんか?」という電話が自宅にかかってきた。翌日は平日だった。夕方、甲府市内の湯村温泉の「ホテル湯伝」のロビーで待ち合わせをすることにした。そこは、山梨大学の講演の時にも泊まった宿で、少年文芸作家クラブの仲間との一泊旅行先として自分がここを薦めたのだと、光瀬氏は語った。お茶も飲まずに、ほんの30分か1時間くらい、そこで話した。
サイン入りの「宇宙叙事詩(上)(下)」とダウンジャケットを戴いた。ダウンジャケットは男物のMサイズだった。値札がついたままで、白いビニール袋に入れられたものを差し出されて、ちょっと面食らった。(ちなみに、私は小柄な方である。7号サイズ(女もののSサイズ)がぴったりの体型である。)
その時、私は既に「哨兵」を読んでいた。「甲府市が舞台になっていましたね」と私は言った。そして、「「あいつらの悲歌」で、甲府市が滅亡したのは、ショックでした」とも言った。光瀬氏は笑った。嬉しくてたまらないような笑い方だった。そして、なかなか笑いやまなかった。それは、私が予期した反応とは大いに違った。「ショックだった」と言えば、少しは申し訳なさそうにしていただけるのではないかと、思うともなく思っていたのだ。
宮澤賢治の話もした。私は「国文学を専攻したのは、宮澤賢治について卒業論文が書きたかったからです」と言った。「宮澤賢治についてなら少しはわかるから、お役にたてるよ」というお言葉が返ってきた。 びっくりした。もちろん、嬉しかった。
甲府市でお会いしたのは、この2回だけである。そのうち、私が東京で一人暮らしをするようになってからは、東京でお会いしていた。(詳しくは
http://sfhyoron.seesaa.net/article/354706423.html)
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光瀬氏が亡くなったのは、1999年7月7日のことである。私はその日に切迫早産で入院した。救急車での入院だった。
「切迫早産」という病名がついたのは、その時、妊娠6か月だったからである。
入院した翌日、医者に「安易に救急車を使わないでくれ」という意味のことを言われた。「私が救急車に患者として乗ったのは、昨日が初めてです。体が全く動かないし、息をするのもつらい状態で、夫と救急の人が、二人がかりで家から運び出してくれたんです」と、私は答えた。「医学的には何の所見もない」という意味のことを医者は言った。その翌日、別の医者が来て、同じ意味のことを言った。「でも、本当にすごく異常な状態だったんです」と私は答えた。実際そうだったのだから、仕方がなかった。
現在、53歳の私が救急車に乗ったのは、それ以来、一度もない。
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甲府市の住民にとっての7月7日は、東京都民にとっての3月10日だ。
昭和20年(1945年)のこの日、甲府市街はB29の爆撃によって火の海になったという。終戦の約1か月前の甲府大空襲は、だから「七夕空襲」とも呼ばれている。
1999年7月7日に光瀬氏が亡くなったことは、夫が病院に新聞を持ってきて知らせてくれた。
「通夜にも、告別式にも、絶対に行くな」と夫は言った。
私が「哨兵」の内容を思い出し、また、「あいつらの悲歌」で甲府市が滅亡することが書かれた号が店頭に並んだのは7月だったことなどに思い当たったのは、もちろんこの時ではなかった。
(了)