2014年10月06日

中里介山『大菩薩峠』について光瀬氏が語ったこと

                                宮野由梨香

 『「大菩薩峠」を都新聞で読む』(伊藤祐吏著・論創社・2013年)という本を読んだ。
 それで思い出した。
 1983年に、私は光瀬氏と『大菩薩峠』について次のような話をしたことがある。
 当時、私は都立大学大学院の修士課程の1年生だった。近代文学の大石ゼミでこの作品を扱ったので、読んだ。テキストは富士見書房の「時代小説文庫」だった。
 面白くないことはなかった。しかし、後半に行くほど「???」だった。
「大乗の思想の表現とか、文章で描く曼荼羅とか、作者も評者も言っていますけど、何だかよくわかりません」
と光瀬氏に言ったら、次のようにおっしゃった。
「人気があって名が通っている作品はね、作者が『もう、やめたい』と思っても、やめられるものではないんですよ。新聞とか雑誌の発行部数に影響が出るほどの作品になってしまうと、もう書くことがなくても書き続けなくてはいけないから、とにかく、登場人物を増やして、場所を広げて、わけがわからなくなってしまって、そこで、理屈付けをして続けたあげくに未完。その典型だね。……心から同情しますね」
 全く同情などしていない口調であった。彼は嗤っていた。
「今だとさぁ、○○のライフワークの○○○とか、あとは○○の○○○なんかも、そうだよね?」
 どちらも私が愛読している作品だったので、びっくりした。
「そ、そうでしょうか?」
「そうだよ。だってさぁ、……」
 作品の構成と、象徴とテーマの一貫性というところを考えてみればわかるという意味のことを彼は言い、更にこう加えた。
「金のあり余っている出版社なんか、あるわけないし」
 私は話を元にもどそうとした。
「中里介山が『大菩薩峠』を書くのをやめたかったのにやめられなかったということに関する証言とか、それについて書かれたものとかあるんでしょうか? 目にしませんが」
「そんなとこと、誰が証言するんだよ? 作者側は言えないし、出版社側が言うわけないだろ?」
「でも、発表媒体、途中でかわっていますよ?」
「一度、ある作品で名前が通ってしまったら、もう、それしか書かせてもらえないということはあるんだよ。読めばわかる。特に同業者には、すごくよくわかる。残念だよね。甲府の場面とか、すごくいいだろう?」
「ああ、あの霧の夜の?」
「そう、あれなんか、なかなか書けるものじゃないよ。なのに、どんどん筆が鈍っていく。書きたいものを書いているなら、ああはならないよね。……だからさ、作品に人気が出るというのは、作者にとっては地獄なこともあるんだよ」

                 ○
 
 さて、光瀬氏は『百億の昼と千億の夜』に関して、石上三登志との対談で次のように語った。

 光瀬 実は、あれ(『百億の昼と千億の夜』宮野註)は、自分自身の気持ちとしては前編なんですよ。あれで終りじゃない。
石上 いずれ、お書きになるということですか。
光瀬 と、思ってはいるんですが……。
(〈奇想天外〉1977年8月号「対談 光瀬龍VS石上三登志」130頁) 


 だから、私は無邪気に何度も尋ねた。「『百億の昼と千億の夜』の続編はいつお書きになるんですか?」と。
 「いずれね」「今は他の作品で手いっぱいで」などと、彼はその都度、答えていた。
 しかし、ある時を境に、私はその質問をしなくなった。
 1994年より後のことだ。場所は新宿だった。
 私のいつもの質問に、「書けるものなら、とっくに書いていますよ」と彼は答えた。
 その意味が私の中に落ちて来るまでに、数秒かかった。
「ごめんなさい」と私は言った。言ったとたんに、謝ることでかえって彼を傷つけたことがわかった。私はひどく動揺した。
 幸いなことに、あるいは不幸なことに、その時、誰かが彼に声をかけてきた。朝日カルチャーセンターでの彼の講座の生徒さんの1人ではなかったかと思う。彼はそちらへ顔を向け、二言、三言、やりとりをした。
 再び、彼が私の方を向き直った時、私にはその話の続きをする気はなかった。
 だから、うろ覚えである。しかし、確か、彼はこう言ったような気がするのだ。
「もし、書くとしたら、誰にも続編だとわからないような形で書くだろうね」

                 ○

 『異本西遊記』を読んだ時に思い出したのは、この時のことだった。(参考http://blog.tokon10.net/?eid=1059004 【付記】)
 光瀬氏はこの作品に関して「これは『百億の昼と千億の夜』の「続編」だ」とは発言していない。
 どうして、そう言わなかったのか。
 彼が『大菩薩峠』について発言したことを思うと、その理由も理解できるような気がするのだ。
 「心から同情しますね」
 そう言った時の彼の表情や口調が、今も目の前によみがえる。
                                  (了)
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2014年04月02日

光瀬龍氏と甲府市について(宮野由梨香)

 雑誌〈ナイトランド〉第7号(平成25年秋号・2013年9月20日発行)に、光瀬龍氏の短編「哨兵」が再録された。

ナイトランド7号.JPG
〈ナイトランド〉第7号

「哨兵」の初出は〈野性時代〉1980年12月号。単行本未収録の作品である。
 「幻視者のためのホラー&ダーク・ファンタジー専門誌」である〈ナイトランド〉に、この作品が再録されたことは、私にとってなかなか心騒ぐ出来事であった。「哨兵」に関してホラーめいた奇妙なエピソードが、私にはあるからだ。
 「哨兵」の前半の舞台は東京であり、語り手の中学生時代の不思議な出来事が語られる。
 転校生の少年Aの家を訪ねた中学生時代の語り手は、全く生活感がない部屋の中に乳母車を押す美しい少女を見る。Aは語り手に「今日この家に爆弾が落ちる」と予告し、帰宅を促す。予告通りに爆弾は落ち、語り手はそれからAに会うことはなかった。
 後半は、山梨県の県庁所在地・甲府市が舞台となる。語り手は作家になっていて、中学生の時のこの体験を、「長篇の単行本のあとがき」に書く。それをきっかけに、少年Aに関する断片的な情報が集まりはじめる。そこには「甲府」という地名が頻出する。一昨年、「甲府駅前の繁華街の喫茶店」で往時の姿のままの少年Aを見かけたと言う証言。また、昭和24年に甲府でAに会ったという同級生。語り手は興信所に依頼する。興信所は「甲府市相生町に居住」という調査結果を示し、それ以上の報告を拒む。調査員が甲府市内の荒川で溺死体で発見されたためだ。語り手は、自ら甲府市を訪れ、なんと、別れたあの日と全く同じ姿のままの少年Aに会う。
 ネタバレになるので、これ以上は書かないが、怪異の中に読者を突き放すかのようなラストが印象的である。
 実は、この作品が書かれた1980年、私は甲府市の住民だった。そして、この年に2回、甲府市で光瀬氏とお会いした。「『百億の昼と千億の夜』の「あとがきにかえて」に出てくる経典のタイトルは何ですか?」と私が光瀬氏に質問したのも、甲府市においてだった。(この質問の意味についてはhttp://sfhyoron.seesaa.net/article/374020151.html )

野性時代.JPG      
野性時代 1980年12月号

                   ○
 光瀬氏は、1980年6月14日(土)に、甲府市武田にある山梨大学の学園祭で講演をおこなった。会場は、工学部の西門を入ってすぐの一階にある「T01」という教室だった。教室は階段状になっていて、かなり広かった。入り口は、前と後ろの二か所だった。
 私は演壇の上にオレンジ色の百合の花を生けた。花器は家から持って行った。紺に臙脂の入り混じった厚めの色ガラスのものだった。飾る許可は、学園祭の実行委員長から得ていた。
 教室のほぼ中央に座って始まるのを待っていると、前の方の入り口から父が覗いた。私は驚いた。当時、私の父は山梨大学の教授だった。しかし、父の研究室は東の外れで、講演会場からは離れていた。しかも、その日そこにいることを、私は父に告げてはいなかった。むしろ意図的に隠していた。父はSFが嫌いだった。『百億の昼と千億の夜』の「寄せてはかえし/かえしては寄せる波の音は、何億年もの、ほとんど永劫に近い昔から、この世界をどよもしていた。」という冒頭について「永劫に近い昔だって? 地球の海ができたのは、現在の説だと……」とツッコミを入れるような人だった。(参考:http://blog.tokon10.net/?eid=1067665 宮野の反論:http://blog.koicon.com/?p=934
 何事かと近付いていった私に、T01教室のドアの横の表示を示しながら、父は言った。
「この教室の管理責任者なんだよ。何かイベントで使うときは、見に来なくっちゃならないんだな」
 そこには、確かに父の名前が書かれたプレートが貼られていた。「え?」と思う間もなく、父は光瀬氏に挨拶し、私をさし示して「娘です」と言った。思いもよらぬ成り行きに、私はただ唖然としていた。
 講演のタイトルは「SFとその周辺」だった。録音が禁止されていたので、音声資料は残っていない。さまざまな興味深い話が語られたが。私にとって一番印象的だったのは、日本SFの成立における安部公房の評論の果たした役割がいかに大きかったかという話だった。(参考:『しずおかSF 異次元への扉』(静岡県文化財団)27〜30頁「仮説の文学」)
「『百億の昼と千億の夜』の「あとがきにかえて」について私が光瀬氏に質問したのは、この日のことである。

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【山梨大学 学園祭パンフレット】
パンフレットの中身.JPG
              ○
 1980年の頃、SF専門誌は5誌あった。そのうちのひとつ〈SF宝石〉に、光瀬氏は「あいつらの悲歌」という作品を連載していた。
 甲府市での光瀬龍の講演から数週間後だっただろうか。〈SF宝石〉の1980年8月号を見て、私は驚いた。作品の中で甲府市が滅亡してしまっていたからだ。

SF宝石.JPG
〈SF宝石〉1980年8月号
 
 
それは、こんなふうに書かれていた。

 真夜中ごろ、甲府盆地へ入った。
 闇黒の底に、死と静寂が沈んでいた。
 一面の星空に、南アルプスの山々が黒い影となって連なっていた。
 ふいに、貢は自分の目的地を悟った。東京をあとに、西へ向かってジープを走らせて来たのは、心の中に自分でも気がついていない目的地があったからなのだ。
 この前、ここへやって来たときは、甲府盆地は灯の海だった。甲府の市街はまだ完全に生きていた。
 貢はあれから五年も十年もたったような気がした。遠い記憶の中のできごとの一部分のようにも思えた。
       (「あいつらの悲歌」第6回 〈SF宝石〉1980年8月号128ページ) 
 

 私は、心の底から冷えあがるものを感じた。甲府の夜景なら何度か見たことがある。そが真っ暗で、星が見えるだけなんて。
 ショックだった。日本が沈没しても、地球が滅亡しても、宇宙が熱量死しても、私はこんなにショックではなかった。
 そこで、まず「ショックだった」という内容の手紙をまず作者に書き送ったような気もするのだが、違うかもしれない。確実なのは、次にお会いした時に直接「甲府市が作品の中で滅びたのを読んだときは、ショックでした」と告げたこと、そして、大笑いされたことである。
 そう、その時のことを語ろう。
 1980年の11月27日の晩、「明日、会えませんか?」という電話が自宅にかかってきた。翌日は平日だった。夕方、甲府市内の湯村温泉の「ホテル湯伝」のロビーで待ち合わせをすることにした。そこは、山梨大学の講演の時にも泊まった宿で、少年文芸作家クラブの仲間との一泊旅行先として自分がここを薦めたのだと、光瀬氏は語った。お茶も飲まずに、ほんの30分か1時間くらい、そこで話した。
 サイン入りの「宇宙叙事詩(上)(下)」とダウンジャケットを戴いた。ダウンジャケットは男物のMサイズだった。値札がついたままで、白いビニール袋に入れられたものを差し出されて、ちょっと面食らった。(ちなみに、私は小柄な方である。7号サイズ(女もののSサイズ)がぴったりの体型である。)
 その時、私は既に「哨兵」を読んでいた。「甲府市が舞台になっていましたね」と私は言った。そして、「「あいつらの悲歌」で、甲府市が滅亡したのは、ショックでした」とも言った。光瀬氏は笑った。嬉しくてたまらないような笑い方だった。そして、なかなか笑いやまなかった。それは、私が予期した反応とは大いに違った。「ショックだった」と言えば、少しは申し訳なさそうにしていただけるのではないかと、思うともなく思っていたのだ。
 宮澤賢治の話もした。私は「国文学を専攻したのは、宮澤賢治について卒業論文が書きたかったからです」と言った。「宮澤賢治についてなら少しはわかるから、お役にたてるよ」というお言葉が返ってきた。 びっくりした。もちろん、嬉しかった。
 甲府市でお会いしたのは、この2回だけである。そのうち、私が東京で一人暮らしをするようになってからは、東京でお会いしていた。(詳しくはhttp://sfhyoron.seesaa.net/article/354706423.html
               ○
 光瀬氏が亡くなったのは、1999年7月7日のことである。私はその日に切迫早産で入院した。救急車での入院だった。
 「切迫早産」という病名がついたのは、その時、妊娠6か月だったからである。
 入院した翌日、医者に「安易に救急車を使わないでくれ」という意味のことを言われた。「私が救急車に患者として乗ったのは、昨日が初めてです。体が全く動かないし、息をするのもつらい状態で、夫と救急の人が、二人がかりで家から運び出してくれたんです」と、私は答えた。「医学的には何の所見もない」という意味のことを医者は言った。その翌日、別の医者が来て、同じ意味のことを言った。「でも、本当にすごく異常な状態だったんです」と私は答えた。実際そうだったのだから、仕方がなかった。
 現在、53歳の私が救急車に乗ったのは、それ以来、一度もない。
               ○
 甲府市の住民にとっての7月7日は、東京都民にとっての3月10日だ。
 昭和20年(1945年)のこの日、甲府市街はB29の爆撃によって火の海になったという。終戦の約1か月前の甲府大空襲は、だから「七夕空襲」とも呼ばれている。
 1999年7月7日に光瀬氏が亡くなったことは、夫が病院に新聞を持ってきて知らせてくれた。
「通夜にも、告別式にも、絶対に行くな」と夫は言った。
 私が「哨兵」の内容を思い出し、また、「あいつらの悲歌」で甲府市が滅亡することが書かれた号が店頭に並んだのは7月だったことなどに思い当たったのは、もちろんこの時ではなかった。
                                 (了)
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2014年02月20日

初夢「荒巻義雄は菩薩である」証拠より論(大和田始)初出:「SF論叢」4号(1980)


 《お知らせ》
 翻訳家の大和田始さまが、「SF論叢」誌の4号に発表した「初夢「荒巻義雄は菩薩である」証拠より論」(1980)について「21世紀、SF評論」への再掲許可を出してくださいました。
 この場を借りて大和田さまのご厚意に感謝いたします。
 読者の皆さまにおかれましては、遊び心と思わぬ洞察の深みを愉しんでいただけましたら幸いです。(岡和田晃)


初夢「荒巻義雄は菩薩である」証拠より論
 大和田始(初出:「SF論叢」4号)

札幌ストーリー 荒巻義雄は1970年から73年にかけて、フルパワーでSFマガジン誌上を駆けぬけた。この時期に彼の作家としての可能性の中心が発光している。初期短編をまとめた『白壁の文字は夕陽に映える』や『柔らかい時計』の中の作品は問題作ぞろいである。その中から、第二作「種子よ」が『神聖代』に発展し、第4作「ある晴れた日のウィーンは森の中にたたずむ」が『白き日旅立てば不死』となり、72年の白亜シリーズは『時の葦舟』にまとめられた。人触れれば人を斬り、馬触れれば馬を斬るこの当時の荒巻義雄の快走ぶりは、手のつけようもない。


恋文・義雄菩薩 荒巻論として知る限りで最もすぐれているのは早川文庫版『白き日――』の鏡明の解説だ。ここに、荒巻義雄という名の電車ならざる問題が集中的に露出している。要約しちゃう。
a 荒巻義雄の描く世界は白い。狂気の、別世界の白さ。
b 視ることと物語を語ることが同居している。
c あいまいさ。何度も、視点をかえて説明がほどこされる。だがどれも決定的な説明とはならない。
この3点は同じ一つの問題のあらわれであるように思える。視ることと語ること、言いかえれば《書くこと》と《読むこと》のせめぎあいのドラマが作品の中に共在しており、作品とはその二つの作用の闘技場であり、本質的に作品は進行中のものとなるのだ。あいまいさと白さは、極めて荒巻的なこの運動の属性であるだろう。荒巻義雄が菩薩でありうるとするならば、それは彼がこの闘いを闘いぬくところに求められる!
のちほど、プレイバック?
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視線上のアリア 荒巻義雄は あとがき魔であり、多くのあとがきを残している。しかもそれが普通の「作家のあとがき」とは著しく異なっている。『神聖代』では「あらかじめ意図された作家の計画に従って注意深く、いわゆる文学(既成的意味の)たることを放棄した作品である」という宣言がなされ、『神州白魔伝』では「我々は、今こそ小説を超した小説を書かねばならない。この小説を超えるとは、小説が本来の虚構性に立ちもどった姿である」と誌される。いわゆる〈物語性の復権〉テーゼでもあるだろうが、ここには旧来の小説に対する根本的な違和感も表されている。〈書くこと〉には必然的に〈読むこと〉がきもなう。〈読みかえし〉のない〈書くこと〉はありえない。論者の中には〈書くこと〉は〈読むこと〉の一分枝にすぎないと見る人もいるほどである。荒巻作品が従来の小説と決定的にずれてしまうのは、奇妙な言い方だが、〈書くこと〉よりも〈読むこと〉を重視してしまうところにあるだろう。『神州白魔伝』とは、平賀源内の冒険を〈読むこと〉について書かれた作品ではないだろうか。
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センチメンタル・ハリケーン 非文学であるか、小説を超えているかどうかはともかく、確かに『時の葦舟』を読むとき、ぼくたちは当惑させられる。これが小説であるためには何かが欠けているのではないか、もっと深みのある世界が描かれていてもよいのではないかというような不満をもってしまう。この不満、それはたとえば「聖杯物語」などを読むときに感じられるものに近いのだろう。おそらく、たぶん『時の葦舟』は物語なのだ。
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ブルジョワジーに走って 本号の論文でワトソンが述べているように、小説という文芸形態は市民階級と〈相即〉的な関係にある。そこには神中心の思考はなく、人間生活が中心に語られる。俗なる人間の俗なる日常、感情、過去、記憶。そのような小説を〈虚構〉と呼ぶとすれば、テクノロジーとユートピア志向とが結婚した小説、非日常を、存在しないものを語る小説は〈仮構〉と呼ぶべきだろうか。


牡牛座宮 小説にあっては個人は一人ひとり分断され、それぞれの欲望をもってうごめいているわけだが、資本主義が一段階すすみ、パルコの広告に特徴的なように、イメージによってぼくたちの脳味噌がからめとられ、差異性の戯れとしての商品が張飛している現在、個人の欲望や行為はたちまちのうちに先取され、均質化されてしまっている。荒巻義雄の作品は一見古めかしく、現代性などには乏しいとも思えるが、物語に近づくことによって、小説の属性とされる深層を失い、そのことによって現代的な性格をかちえているようだ。とはいえ、荒巻に即して考えるとすれば、むしろSFという虚構の上に、さらに屋上屋を架したと見るほうが正解かもしれない。この間の事情をウォルハイムは「SFはSFの上につくられる」と喝破したのである。この定理の革命的な意義についてはプレイバックするとして――


曼珠沙華 まづ和歌の本歌どりを考へてみやう。浅沼圭司の『映ろひと戯れ――定家を読む』にはヂュリア・クリステヴァの仮説が紹介されてゐる。彼女はヨオロツパの歴史を二分し、十三世紀から十四世紀にかけて、象徴的思考が記号的思考にかはつたとしてゐるらしい。日本にこれと匹敵するやうな変化を求むるとすれば、おそらく鎌倉時代がその分岐点になるだらう。そして定家の、日本古代を総括し哀惜する歌
  春の夜の夢の浮橋とだえして
     峯に別かるる横雲の空
がその指標となるだろう。ほいでもって本歌どりとは、理念的な世界・象徴的な思考の世界に所属する本歌から象徴性を奪いとり、記号=仮構に変える行為ということになる。この二つの歌の間の関係は「いわば二枚の鏡の間に現れ出たイマージュの反映の戯れ。(中略)外へでて現実の世界に接することも、その上へ超え出て理念的なものに向うこともない」


たちまちプレイバック なんじゃこりゃ。SF論かいな――本歌どられたSFは、それがもつ象徴性を奪いとられ、たとえばタイム・マシンといったような記号として伝送され、それを超えでることがない。「SFはSFの上につくられる」とは"アイディア" 奪いあいの果てに現出した本歌どりどられの一大白痴、桃源郷、SFの黄金時代の核心をついた名言と申すべきだろうか!


しなやかに歌って 「小説が原泉とする《記憶》を欠いているため、荒巻義雄の作品は《表面的》なるものとならざるをえない。《背後》の深さはここではゲーム的な錯綜としてあらわれ、身体ではなく脳髄を刺激する。《白熱》するのだ。


マホガニー・モーニング ジャスパー・ジョーンズは記号を題材にえらぶことによって、作品を《背後》への無限の溯行から決定的に《表面》へもち来たらす。タブローを星条旗そのものと同一化することによって、作品は《背後》のない純粋な《表面》になるのである。(中略)たえず《記憶》を打ち消してゆく時間論的な《現在》の永遠の自己運動の苦渋に満ちた軌跡は、ここ(プライマリー・アート=引用者註)ではついに、完全に《記憶》を拭い去った《表面》の現前にまで到達するのである。(宮川淳『引用の織物』より)


名前のない時間 『時の葦舟』は神話的な物語。そして第1話「白い環」は最も古く純潔な、おそらくは中生代以前(!)の世界である。ところでこの短編を、現代の科学の用語をつかって解釈してみよう。鏡面反射によって自己励起した粒子が相対性原理の不思議で未来へと旅し、恋という磁場に捕えられ、鏡の回廊をもつ白い環のサイクロトロンの中に封じこめられ、左右逆転の反粒子と対消滅するという物語になるだろうか。「白い環」とはその過程を記録した原始乾板である!
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鏡の中のある日 「白い環」で重要なのは鏡のモチーフだろう。面的な街をうつす大鏡面。面と表面の戯れ。たとえ鏡像であったとしても、遠くのものは小さく見えるはずなのに、作品はすべてを近いものとして語っているかのようだ。"自己"を中心とする遠近構造がくずれ、すべてが等距離のものとして立ち現れている。関係の等価値性、経済の悠久性によって "真の自己"は到達しにくい境地となっているのだ。占卜が繁昌しているのはその代替作用でもあろうか。鏡が、夢が、個人の欲望・運命・ありうべき位置をあきらかにする。
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湖の決心 ソルティの街のある谷間全体を"自我"とみなしてみよう。閉ざされた自我。揺籃期の幼児の夢の自我。鏡面が谺をかえさないのは当然といえよう。住民たちに過去はなく、時間もない。ゴルドハはそこをぬけだしていく。だが外にはトカゲというあまりに弱い敵しか存在していない。空間と時間を知ったゴルドハは再び内攻する。そして「時の旅人」を知る。鏡に映らない男。高次の自我を象徴する男。導師クリストファネスは内海にうかぶ舟にゴルドハを遣る。鏡の胎道をぬけて、交合の追体験として、ゴルドハは受精時の彼自身に出会う。
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イミテーション・ゴールド 無茶苦茶なる "解釈"だが、『神聖代』の解説で筒井康隆が書いているように、荒巻の作品は「内宇宙へ指向する者の『聖書』」であり、作品それ自体、ないしは《背後》に「内容」や「意味」があるのではない。荒巻の作品とは「曼荼羅」や「十牛図」として、一幅の絵として、鏡として、《記憶》や《背後》を欠いた《表面》として我々の前に投げだされているにすぎないのだ。読者はおのおのの似姿をそこに見いだすほかはない。


イミテーション・ホワイト・ホール 問答無用・義雄秘法 荒巻義雄が問題となるのは、SFの仮構世界を築きあげ、『時の葦舟』におけるように、作品のぬしとして振るまうかにみせかけながら、結局はその世界を不分明のものとして放り出し、自らも無知なる一個の読者としてその世界を読もうとする態度であるだろう。作品をこのような文学装置=仕掛としてしまうあり方に、荒巻が我々にもつ意義がある。彼自身は「物語」であると擬装しつつ、ぬし的なふるまいをおこたってはいないが、実際には作品を《内側》に《深さ》に読むのではなく、《外側》に《浅さ》に読んでいるのだ。その間の事情は「〈想像〉は内に向う心の動きであるが、一方〈空想〉はそれとは逆に外に向って拡散する心の働きなのである」と述べられている。荒巻義雄という一個のエゴにおいて作品を終結させようとはしていないのである。
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夢先案内人 「 "世界" の意味を教えることが、はたしてよいことかどうか、少なからずためらいますが」と「時の葦舟」の登場人物は語っているけれども、その"意味" とは、おそらく、世界が他者の夢裡のものであるということだろう。とはいえこれは、「黒いものは、不意にかき消えた。(中略)"世界"の意味もかき消える……」と最後の二行が示唆するように、作品が尻をまくると同時に無意味になってしまう。「種子よ」の中にもすでに、この世界は何者かの夢、あるいは異次元から投影された映像ではないかという記述がある。この発想自体は目新しいものではないが、夢また夢という構図を装置として作中にくりこみ、「底なしの深さのなさ」を生んだのは荒巻をもって嚆矢とするのかもしれない。


継承と断念 今やぼくたちは《記憶》と《背後》を読むことによる「文学的感動」というべきものを諦めなければならない。ぼくたちの魂は『神聖代』や『時の葦舟』を読んでうちふるえる。しかしこれは文学装置的振動と呼ぶべきなのだろう。
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悲願花 妄想言語系は突然の中断をむかえる。荒巻義雄について考えなければならないことは多い。とりわけルイス・キャロルや宮沢賢治との関連で語らなければならないだろう。ただ、今ようやく長い夢から醒めたばかりの当方にその準備はない。いつの日か初夢が……


参考文献
荒巻義雄『白壁の文字は夕陽に映える』早川書房
    『柔らかい時計』徳間書店
    『神聖代』徳間書店
    『ある晴れた日のウィーンは』カイガイ出版
    『白き日旅立てば不死』早川書房JA文庫
    『時の葦舟』講談社文庫
    『神州白魔伝 九来印之壺の巻』奇想天外社
浅沼圭司『映ろひと戯れ――定家を読む』小沢書店・叢書エパーヴ
宮川淳 『引用の織物』
平岡正明『山口百恵は菩薩である』講談社

Web註「ブルジョワジーに走って 本号の論文でワトソンが述べているように」という記述は、掲載号に翻訳されたワトソンとプリーストの対論「SF形式と内容」を指している。
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