【資料アーカイブ】
次の文章は、宮野由梨香が18歳〜19歳の時(1979年〜1980年)に、所属していた漫画研究会の会誌〈TINY〉3号・4号に発表したものである。(名義は「Yurika」となっている。)若書きが非常に恥ずかしいのだが、現代の目で見ると面白い部分もあるのではないかと思い、こちらに提示することにした。当時の読者の受けとめ方の資料のひとつとなれば幸いである。(時事的な話題で、当時は皆が当たり前に知っていたことを踏まえている部分はあえて残しましたが、現代の目からみてどうかと思われる表現等は手直ししました。また、記号や表記を統一して読みやすくしてあります。)(宮野由梨香)

☆『百億の昼と千億の夜』について☆
Yurika
いささか古い話をするけれど……。
私が小説のほうの『百億の昼と千億の夜』を読んだのは、高校1年生の秋。もう何というか、呆けたのよね。阿修羅王が好きで好きで。
それから半年後、〈週刊少年チャンピオン〉にマンガ化の連載が始まったのだけど。
それで考えたのだよ、こんなふうに。
まず、マンガ版の方ね、原作との違いを拾っていくと、こういうふうに読める。
マンガを描くということは正に「決して勝てず、しかも終わることのない戦い」。だから彼女にとって幸福になる道はただ1つ、「戦い(マンガを描くこと)をやめること」しかない。……彼女のまわりにいる男は雑魚か、でなければあと2種類。1つは彼女の戦い(マンガ)を理解し、彼女とともに戦う(描くことに協力する、あるいは同業者の)男。つまり、シッダルタ。彼には「私に説教してみるか」と言った彼女の悲しみが理解できなかった。(2巻206ページ。こんな会話は原作にはない。)もう1つは、彼女自身を愛し理解し戦いをやめさせようとする男。つまり帝釈天。彼には結局、彼女に戦いをやめさせることはできない。(2巻120〜123ページ。この会話も原作にはない。)彼女自身が戦うこと(マンガを描くこと)以上の情熱をもって愛することができる人物は決して現れない。まさに悲劇。
そりゃあ誰もが山口百恵になれるわけじゃあないということは、私にだってよくわかっている。だけど、これじゃあ あまり ひどすぎる。
同じ本を読んで同じ人物に魅かれても、全くその解釈がズレているということはあるものなのねということが、よ〜くわかった。
では、私が小説のほうの『百億の昼と千億の夜』をどのように読んだのか、ということは、また次の機会に。
(〈TINY〉3号より)
☆『百億の昼と千億の夜』について・その2☆
Yurika
私にとって『百億の昼と千億の夜』は、「どうせ死ぬのに、なぜ生きるの?」という質問への答えだった。
それはさておき、「これって何?」なことがあるのよね。光瀬龍が「あとがきにかえて」で書いている経典が読みたくて捜したら、阿修羅王と帝釈天の戦いの由来って、阿修羅王の娘を帝釈天が妻として奪ったからだという話しか見つからないの。これって、光瀬龍の「つくり話」なんじゃないかなぁ。だから、うだうだとカーテンコールのことなんか最初に書いているのよ。じゃあ、どうして話を逆にして、もとの話にはない乾脱婆王だの天輪王だのを登場させたのか?
『ロン先生の虫眼鏡』を読むと、どうやら光瀬龍って、結婚していて子供もいるらしい。ということは、「現実は逆」だから話を逆にしたんだよ。「結婚の拒否」の逆は「結婚の強要」。乾脱婆王って「婆」ってところが母親っぽい。とすると天輪王ってのは父親だね。
でも、変だなぁ? ならどうして「天輪王のひとり娘」って書かないの? 天輪王には別に妻子がいて、一緒には住んでいないみたいな? 正式に結婚していないってこと? この世代って、ほら「男ひとりに女はトラック一杯」だから(中学校の時の社会科で習った。)、そういうのって多いよね。
娘の身内が男に結婚を強要するって、理由は「娘の妊娠」だよね? ああ、そうか。だから阿修羅王はヘロデ王の赤子殺しを手を打って笑うんだ。
直接の敵は帝釈天。タイシャクっていえば「貸借」だよね。身内あるいは本人に多額の借金でもあって、それをネタに強要されたのかな? そして、それを娘は何も知らないの。
光瀬龍は、誰にも言えないことを抱えていて、嘘でしか本当のことが言えないんだ。
だから、光瀬龍の小説は「誰にも言えないことを抱えてしまった人」の心を救うんだと思う。
(〈TINY〉4号より)
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