『「大菩薩峠」を都新聞で読む』(伊藤祐吏著・論創社・2013年)という本を読んだ。
それで思い出した。
1983年に、私は光瀬氏と『大菩薩峠』について次のような話をしたことがある。
当時、私は都立大学大学院の修士課程の1年生だった。近代文学の大石ゼミでこの作品を扱ったので、読んだ。テキストは富士見書房の「時代小説文庫」だった。
面白くないことはなかった。しかし、後半に行くほど「???」だった。
「大乗の思想の表現とか、文章で描く曼荼羅とか、作者も評者も言っていますけど、何だかよくわかりません」
と光瀬氏に言ったら、次のようにおっしゃった。
「人気があって名が通っている作品はね、作者が『もう、やめたい』と思っても、やめられるものではないんですよ。新聞とか雑誌の発行部数に影響が出るほどの作品になってしまうと、もう書くことがなくても書き続けなくてはいけないから、とにかく、登場人物を増やして、場所を広げて、わけがわからなくなってしまって、そこで、理屈付けをして続けたあげくに未完。その典型だね。……心から同情しますね」
全く同情などしていない口調であった。彼は嗤っていた。
「今だとさぁ、○○のライフワークの○○○とか、あとは○○の○○○なんかも、そうだよね?」
どちらも私が愛読している作品だったので、びっくりした。
「そ、そうでしょうか?」
「そうだよ。だってさぁ、……」
作品の構成と、象徴とテーマの一貫性というところを考えてみればわかるという意味のことを彼は言い、更にこう加えた。
「金のあり余っている出版社なんか、あるわけないし」
私は話を元にもどそうとした。
「中里介山が『大菩薩峠』を書くのをやめたかったのにやめられなかったということに関する証言とか、それについて書かれたものとかあるんでしょうか? 目にしませんが」
「そんなとこと、誰が証言するんだよ? 作者側は言えないし、出版社側が言うわけないだろ?」
「でも、発表媒体、途中でかわっていますよ?」
「一度、ある作品で名前が通ってしまったら、もう、それしか書かせてもらえないということはあるんだよ。読めばわかる。特に同業者には、すごくよくわかる。残念だよね。甲府の場面とか、すごくいいだろう?」
「ああ、あの霧の夜の?」
「そう、あれなんか、なかなか書けるものじゃないよ。なのに、どんどん筆が鈍っていく。書きたいものを書いているなら、ああはならないよね。……だからさ、作品に人気が出るというのは、作者にとっては地獄なこともあるんだよ」
○
さて、光瀬氏は『百億の昼と千億の夜』に関して、石上三登志との対談で次のように語った。
光瀬 実は、あれ(『百億の昼と千億の夜』宮野註)は、自分自身の気持ちとしては前編なんですよ。あれで終りじゃない。
石上 いずれ、お書きになるということですか。
光瀬 と、思ってはいるんですが……。
(〈奇想天外〉1977年8月号「対談 光瀬龍VS石上三登志」130頁)
だから、私は無邪気に何度も尋ねた。「『百億の昼と千億の夜』の続編はいつお書きになるんですか?」と。
「いずれね」「今は他の作品で手いっぱいで」などと、彼はその都度、答えていた。
しかし、ある時を境に、私はその質問をしなくなった。
1994年より後のことだ。場所は新宿だった。
私のいつもの質問に、「書けるものなら、とっくに書いていますよ」と彼は答えた。
その意味が私の中に落ちて来るまでに、数秒かかった。
「ごめんなさい」と私は言った。言ったとたんに、謝ることでかえって彼を傷つけたことがわかった。私はひどく動揺した。
幸いなことに、あるいは不幸なことに、その時、誰かが彼に声をかけてきた。朝日カルチャーセンターでの彼の講座の生徒さんの1人ではなかったかと思う。彼はそちらへ顔を向け、二言、三言、やりとりをした。
再び、彼が私の方を向き直った時、私にはその話の続きをする気はなかった。
だから、うろ覚えである。しかし、確か、彼はこう言ったような気がするのだ。
「もし、書くとしたら、誰にも続編だとわからないような形で書くだろうね」
○
『異本西遊記』を読んだ時に思い出したのは、この時のことだった。(参考http://blog.tokon10.net/?eid=1059004 【付記】)
光瀬氏はこの作品に関して「これは『百億の昼と千億の夜』の「続編」だ」とは発言していない。
どうして、そう言わなかったのか。
彼が『大菩薩峠』について発言したことを思うと、その理由も理解できるような気がするのだ。
「心から同情しますね」
そう言った時の彼の表情や口調が、今も目の前によみがえる。
(了)
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