<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>

<rdf:RDF
  xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
  xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
  xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
  xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
  xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
>

<channel rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/">
<title>２１世紀、ＳＦ評論</title>
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/</link>
<description></description>
<dc:language>ja</dc:language>
<admin:generatorAgent rdf:resource="https://blog.seesaa.jp/" />
<items>
<rdf:Seq>
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/406602668.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/393570128.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/389242505.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/388744374.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/386095867.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/383267545.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/382140953.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/381121197.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/378445464.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/374020151.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/373270979.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/371665770.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/370624459.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/368379763.html" />
<rdf:li rdf:resource="https://sfhyoron.seesaa.net/article/367051754.html" />
</rdf:Seq>
</items>
</channel>

<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/406602668.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/406602668.html</link>
<title>中里介山『大菩薩峠』について光瀬氏が語ったこと&lt;br /&gt;</title>
<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　宮野由梨香　『「大菩薩峠」を都新聞で読む』（伊藤祐吏著・論創社・２０１３年）という本を読んだ。　それで思い出した。　１９８３年に、私は光瀬氏と『大菩薩峠』について次のような話をしたことがある。　当時、私は都立大学大学院の修士課程の１年生だった。近代文学の大石ゼミでこの作品を扱ったので、読んだ。テキストは富士見書房の「時代小説文庫」だった。　面白くないことはなかった。しかし、後半に行くほど「？？？」だった。「大乗の..</description>
<dc:subject>ＳＦ評論</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2014-10-06T00:33:11+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　宮野由梨香<br /><br />　『「大菩薩峠」を都新聞で読む』（伊藤祐吏著・論創社・２０１３年）という本を読んだ。<br />　それで思い出した。<br />　１９８３年に、私は光瀬氏と『大菩薩峠』について次のような話をしたことがある。<br />　当時、私は都立大学大学院の修士課程の１年生だった。近代文学の大石ゼミでこの作品を扱ったので、読んだ。テキストは富士見書房の「時代小説文庫」だった。<br />　面白くないことはなかった。しかし、後半に行くほど「？？？」だった。<br />「大乗の思想の表現とか、文章で描く曼荼羅とか、作者も評者も言っていますけど、何だかよくわかりません」<br />と光瀬氏に言ったら、次のようにおっしゃった。<br />「人気があって名が通っている作品はね、作者が『もう、やめたい』と思っても、やめられるものではないんですよ。新聞とか雑誌の発行部数に影響が出るほどの作品になってしまうと、もう書くことがなくても書き続けなくてはいけないから、とにかく、登場人物を増やして、場所を広げて、わけがわからなくなってしまって、そこで、理屈付けをして続けたあげくに未完。その典型だね。……心から同情しますね」<br />　全く同情などしていない口調であった。彼は嗤っていた。<br />「今だとさぁ、○○のライフワークの○○○とか、あとは○○の○○○なんかも、そうだよね？」<br />　どちらも私が愛読している作品だったので、びっくりした。<br />「そ、そうでしょうか？」<br />「そうだよ。だってさぁ、……」<br />　作品の構成と、象徴とテーマの一貫性というところを考えてみればわかるという意味のことを彼は言い、更にこう加えた。<br />「金のあり余っている出版社なんか、あるわけないし」<br />　私は話を元にもどそうとした。<br />「中里介山が『大菩薩峠』を書くのをやめたかったのにやめられなかったということに関する証言とか、それについて書かれたものとかあるんでしょうか？　目にしませんが」<br />「そんなとこと、誰が証言するんだよ？　作者側は言えないし、出版社側が言うわけないだろ？」<br />「でも、発表媒体、途中でかわっていますよ？」<br />「一度、ある作品で名前が通ってしまったら、もう、それしか書かせてもらえないということはあるんだよ。読めばわかる。特に同業者には、すごくよくわかる。残念だよね。甲府の場面とか、すごくいいだろう？」<br />「ああ、あの霧の夜の？」<br />「そう、あれなんか、なかなか書けるものじゃないよ。なのに、どんどん筆が鈍っていく。書きたいものを書いているなら、ああはならないよね。……だからさ、作品に人気が出るというのは、作者にとっては地獄なこともあるんだよ」<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　○<br />　<br />　さて、光瀬氏は『百億の昼と千億の夜』に関して、石上三登志との対談で次のように語った。<br /><br /><blockquote>　光瀬　実は、あれ（『百億の昼と千億の夜』宮野註）は、自分自身の気持ちとしては前編なんですよ。あれで終りじゃない。<br /> 石上　いずれ、お書きになるということですか。<br /> 光瀬　と、思ってはいるんですが……。<br /> （〈奇想天外〉１９７７年８月号「対談　光瀬龍ＶＳ石上三登志」１３０頁）　</blockquote><br /><br />　だから、私は無邪気に何度も尋ねた。「『百億の昼と千億の夜』の続編はいつお書きになるんですか？」と。<br />　「いずれね」「今は他の作品で手いっぱいで」などと、彼はその都度、答えていた。<br />　しかし、ある時を境に、私はその質問をしなくなった。<br />　１９９４年より後のことだ。場所は新宿だった。<br />　私のいつもの質問に、「書けるものなら、とっくに書いていますよ」と彼は答えた。<br />　その意味が私の中に落ちて来るまでに、数秒かかった。<br />「ごめんなさい」と私は言った。言ったとたんに、謝ることでかえって彼を傷つけたことがわかった。私はひどく動揺した。<br />　幸いなことに、あるいは不幸なことに、その時、誰かが彼に声をかけてきた。朝日カルチャーセンターでの彼の講座の生徒さんの１人ではなかったかと思う。彼はそちらへ顔を向け、二言、三言、やりとりをした。<br />　再び、彼が私の方を向き直った時、私にはその話の続きをする気はなかった。<br />　だから、うろ覚えである。しかし、確か、彼はこう言ったような気がするのだ。<br />「もし、書くとしたら、誰にも続編だとわからないような形で書くだろうね」<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　○<br /><br />　『異本西遊記』を読んだ時に思い出したのは、この時のことだった。（参考<a href="http://blog.tokon10.net/?eid=1059004" target="_blank">http://blog.tokon10.net/?eid=1059004</a>　【付記】）<br />　光瀬氏はこの作品に関して「これは『百億の昼と千億の夜』の「続編」だ」とは発言していない。<br />　どうして、そう言わなかったのか。<br />　彼が『大菩薩峠』について発言したことを思うと、その理由も理解できるような気がするのだ。<br />　「心から同情しますね」<br />　そう言った時の彼の表情や口調が、今も目の前によみがえる。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（了）<br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/393570128.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/393570128.html</link>
<title>光瀬龍氏と甲府市について（宮野由梨香）</title>
<description>　雑誌〈ナイトランド〉第７号（平成２５年秋号・２０１３年９月２０日発行）に、光瀬龍氏の短編「哨兵」が再録された。〈ナイトランド〉第７号「哨兵」の初出は〈野性時代〉１９８０年１２月号。単行本未収録の作品である。　「幻視者のためのホラー＆ダーク・ファンタジー専門誌」である〈ナイトランド〉に、この作品が再録されたことは、私にとってなかなか心騒ぐ出来事であった。「哨兵」に関してホラーめいた奇妙なエピソードが、私にはあるからだ。　「哨兵」の前半の舞台は東京であり、語り手の中学生時代の不..</description>
<dc:subject>ＳＦ評論</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2014-04-02T18:06:03+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　雑誌〈ナイトランド〉第７号（平成２５年秋号・２０１３年９月２０日発行）に、光瀬龍氏の短編「哨兵」が再録された。<br /><br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E3838AE382A4E38388E383A9E383B3E38389EFBC97E58FB7.JPG" target="_blank"><img width="240" height="320" alt="ナイトランド７号.JPG" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E3838AE382A4E38388E383A9E383B3E38389EFBC97E58FB7-thumbnail2.JPG" border="0" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/E3838AE382A4E38388E383A9E383B3E38389EFBC97E58FB7-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />〈ナイトランド〉第７号<br /><br />「哨兵」の初出は〈野性時代〉１９８０年１２月号。単行本未収録の作品である。<br />　「幻視者のためのホラー＆ダーク・ファンタジー専門誌」である〈ナイトランド〉に、この作品が再録されたことは、私にとってなかなか心騒ぐ出来事であった。「哨兵」に関してホラーめいた奇妙なエピソードが、私にはあるからだ。<br />　「哨兵」の前半の舞台は東京であり、語り手の中学生時代の不思議な出来事が語られる。<br />　転校生の少年Ａの家を訪ねた中学生時代の語り手は、全く生活感がない部屋の中に乳母車を押す美しい少女を見る。Ａは語り手に「今日この家に爆弾が落ちる」と予告し、帰宅を促す。予告通りに爆弾は落ち、語り手はそれからＡに会うことはなかった。<br />　後半は、山梨県の県庁所在地・甲府市が舞台となる。語り手は作家になっていて、中学生の時のこの体験を、「長篇の単行本のあとがき」に書く。それをきっかけに、少年Ａに関する断片的な情報が集まりはじめる。そこには「甲府」という地名が頻出する。一昨年、「甲府駅前の繁華街の喫茶店」で往時の姿のままの少年Ａを見かけたと言う証言。また、昭和２４年に甲府でＡに会ったという同級生。語り手は興信所に依頼する。興信所は「甲府市相生町に居住」という調査結果を示し、それ以上の報告を拒む。調査員が甲府市内の荒川で溺死体で発見されたためだ。語り手は、自ら甲府市を訪れ、なんと、別れたあの日と全く同じ姿のままの少年Ａに会う。<br />　ネタバレになるので、これ以上は書かないが、怪異の中に読者を突き放すかのようなラストが印象的である。<br />　実は、この作品が書かれた１９８０年、私は甲府市の住民だった。そして、この年に２回、甲府市で光瀬氏とお会いした。「『百億の昼と千億の夜』の「あとがきにかえて」に出てくる経典のタイトルは何ですか？」と私が光瀬氏に質問したのも、甲府市においてだった。(この質問の意味については<a href="http://sfhyoron.seesaa.net/article/374020151.html" target="_blank">http://sfhyoron.seesaa.net/article/374020151.html</a> )<br /><br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E9878EE680A7E69982E4BBA3.JPG" target="_blank"><img width="240" height="320" alt="野性時代.JPG" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E9878EE680A7E69982E4BBA3-thumbnail2.JPG" border="0" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/E9878EE680A7E69982E4BBA3-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>　　　　　　<br />野性時代　１９８０年１２月号<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　○<br />　光瀬氏は、１９８０年６月１４日（土）に、甲府市武田にある山梨大学の学園祭で講演をおこなった。会場は、工学部の西門を入ってすぐの一階にある「Ｔ０１」という教室だった。教室は階段状になっていて、かなり広かった。入り口は、前と後ろの二か所だった。<br />　私は演壇の上にオレンジ色の百合の花を生けた。花器は家から持って行った。紺に臙脂の入り混じった厚めの色ガラスのものだった。飾る許可は、学園祭の実行委員長から得ていた。<br />　教室のほぼ中央に座って始まるのを待っていると、前の方の入り口から父が覗いた。私は驚いた。当時、私の父は山梨大学の教授だった。しかし、父の研究室は東の外れで、講演会場からは離れていた。しかも、その日そこにいることを、私は父に告げてはいなかった。むしろ意図的に隠していた。父はＳＦが嫌いだった。『百億の昼と千億の夜』の「寄せてはかえし／かえしては寄せる波の音は、何億年もの、ほとんど永劫に近い昔から、この世界をどよもしていた。」という冒頭について「永劫に近い昔だって？　地球の海ができたのは、現在の説だと……」とツッコミを入れるような人だった。（参考：<a href="http://blog.tokon10.net/?eid=1067665" target="_blank">http://blog.tokon10.net/?eid=1067665</a>　宮野の反論：<a href="http://blog.koicon.com/?p=934" target="_blank">http://blog.koicon.com/?p=934</a>）<br />　何事かと近付いていった私に、Ｔ０１教室のドアの横の表示を示しながら、父は言った。<br />「この教室の管理責任者なんだよ。何かイベントで使うときは、見に来なくっちゃならないんだな」<br />　そこには、確かに父の名前が書かれたプレートが貼られていた。「え？」と思う間もなく、父は光瀬氏に挨拶し、私をさし示して「娘です」と言った。思いもよらぬ成り行きに、私はただ唖然としていた。<br />　講演のタイトルは「ＳＦとその周辺」だった。録音が禁止されていたので、音声資料は残っていない。さまざまな興味深い話が語られたが。私にとって一番印象的だったのは、日本ＳＦの成立における安部公房の評論の果たした役割がいかに大きかったかという話だった。（参考：『しずおかＳＦ　異次元への扉』（静岡県文化財団）２７～３０頁「仮説の文学」）<br />「『百億の昼と千億の夜』の「あとがきにかえて」について私が光瀬氏に質問したのは、この日のことである。<br /><br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E6A2A8E5A4A7E7A5ADE38391E383B3E38395E383ACE38383E38388-e5e0a.JPG" target="_blank"><img width="240" height="320" alt="梨大祭パンフレット.JPG" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E6A2A8E5A4A7E7A5ADE38391E383B3E38395E383ACE38383E38388-e5e0a-thumbnail2.JPG" border="0" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/E6A2A8E5A4A7E7A5ADE38391E383B3E38395E383ACE38383E38388-e5e0a-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />【山梨大学　学園祭パンフレット】<br /><img width="640" height="480" alt="パンフレットの中身.JPG" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E38391E383B3E38395E383ACE38383E38388E381AEE4B8ADE8BAAB.JPG" border="0" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/E38391E383B3E38395E383ACE38383E38388E381AEE4B8ADE8BAAB.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /><br />　　　　　　　　　　　　　　○<br />　１９８０年の頃、ＳＦ専門誌は５誌あった。そのうちのひとつ〈ＳＦ宝石〉に、光瀬氏は「あいつらの悲歌」という作品を連載していた。<br />　甲府市での光瀬龍の講演から数週間後だっただろうか。〈ＳＦ宝石〉の１９８０年８月号を見て、私は驚いた。作品の中で甲府市が滅亡してしまっていたからだ。<br /><br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/EFBCB3EFBCA6E5AE9DE79FB3.JPG" target="_blank"><img width="240" height="320" alt="ＳＦ宝石.JPG" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/EFBCB3EFBCA6E5AE9DE79FB3-thumbnail2.JPG" border="0" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/EFBCB3EFBCA6E5AE9DE79FB3-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />〈ＳＦ宝石〉１９８０年８月号<br />　<br />　<br /> それは、こんなふうに書かれていた。<br /><br /><blockquote>　真夜中ごろ、甲府盆地へ入った。<br />　闇黒の底に、死と静寂が沈んでいた。<br />　一面の星空に、南アルプスの山々が黒い影となって連なっていた。<br />　ふいに、貢は自分の目的地を悟った。東京をあとに、西へ向かってジープを走らせて来たのは、心の中に自分でも気がついていない目的地があったからなのだ。<br />　この前、ここへやって来たときは、甲府盆地は灯の海だった。甲府の市街はまだ完全に生きていた。<br />　貢はあれから五年も十年もたったような気がした。遠い記憶の中のできごとの一部分のようにも思えた。<br />　　　　　　　（「あいつらの悲歌」第６回　〈ＳＦ宝石〉１９８０年８月号１２８ページ）　<br /></blockquote>　<br /><br />　私は、心の底から冷えあがるものを感じた。甲府の夜景なら何度か見たことがある。そが真っ暗で、星が見えるだけなんて。<br />　ショックだった。日本が沈没しても、地球が滅亡しても、宇宙が熱量死しても、私はこんなにショックではなかった。<br />　そこで、まず「ショックだった」という内容の手紙をまず作者に書き送ったような気もするのだが、違うかもしれない。確実なのは、次にお会いした時に直接「甲府市が作品の中で滅びたのを読んだときは、ショックでした」と告げたこと、そして、大笑いされたことである。<br />　そう、その時のことを語ろう。<br />　１９８０年の１１月２７日の晩、「明日、会えませんか？」という電話が自宅にかかってきた。翌日は平日だった。夕方、甲府市内の湯村温泉の「ホテル湯伝」のロビーで待ち合わせをすることにした。そこは、山梨大学の講演の時にも泊まった宿で、少年文芸作家クラブの仲間との一泊旅行先として自分がここを薦めたのだと、光瀬氏は語った。お茶も飲まずに、ほんの３０分か１時間くらい、そこで話した。<br />　サイン入りの「宇宙叙事詩（上）（下）」とダウンジャケットを戴いた。ダウンジャケットは男物のＭサイズだった。値札がついたままで、白いビニール袋に入れられたものを差し出されて、ちょっと面食らった。（ちなみに、私は小柄な方である。７号サイズ(女もののＳサイズ)がぴったりの体型である。）<br />　その時、私は既に「哨兵」を読んでいた。「甲府市が舞台になっていましたね」と私は言った。そして、「「あいつらの悲歌」で、甲府市が滅亡したのは、ショックでした」とも言った。光瀬氏は笑った。嬉しくてたまらないような笑い方だった。そして、なかなか笑いやまなかった。それは、私が予期した反応とは大いに違った。「ショックだった」と言えば、少しは申し訳なさそうにしていただけるのではないかと、思うともなく思っていたのだ。<br />　宮澤賢治の話もした。私は「国文学を専攻したのは、宮澤賢治について卒業論文が書きたかったからです」と言った。「宮澤賢治についてなら少しはわかるから、お役にたてるよ」というお言葉が返ってきた。　びっくりした。もちろん、嬉しかった。<br />　甲府市でお会いしたのは、この２回だけである。そのうち、私が東京で一人暮らしをするようになってからは、東京でお会いしていた。（詳しくは<a href="http://sfhyoron.seesaa.net/article/354706423.html" target="_blank">http://sfhyoron.seesaa.net/article/354706423.html</a>）<br />　　　　　　　　　　　　　　　○<br />　光瀬氏が亡くなったのは、１９９９年７月７日のことである。私はその日に切迫早産で入院した。救急車での入院だった。<br />　「切迫早産」という病名がついたのは、その時、妊娠６か月だったからである。<br />　入院した翌日、医者に「安易に救急車を使わないでくれ」という意味のことを言われた。「私が救急車に患者として乗ったのは、昨日が初めてです。体が全く動かないし、息をするのもつらい状態で、夫と救急の人が、二人がかりで家から運び出してくれたんです」と、私は答えた。「医学的には何の所見もない」という意味のことを医者は言った。その翌日、別の医者が来て、同じ意味のことを言った。「でも、本当にすごく異常な状態だったんです」と私は答えた。実際そうだったのだから、仕方がなかった。<br />　現在、５３歳の私が救急車に乗ったのは、それ以来、一度もない。<br />　　　　　　　　　　　　　　　○<br />　甲府市の住民にとっての７月７日は、東京都民にとっての３月１０日だ。<br />　昭和２０年（１９４５年）のこの日、甲府市街はＢ２９の爆撃によって火の海になったという。終戦の約１か月前の甲府大空襲は、だから「七夕空襲」とも呼ばれている。<br />　１９９９年７月７日に光瀬氏が亡くなったことは、夫が病院に新聞を持ってきて知らせてくれた。<br />「通夜にも、告別式にも、絶対に行くな」と夫は言った。<br />　私が「哨兵」の内容を思い出し、また、「あいつらの悲歌」で甲府市が滅亡することが書かれた号が店頭に並んだのは７月だったことなどに思い当たったのは、もちろんこの時ではなかった。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（了）<br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/389242505.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/389242505.html</link>
<title>初夢「荒巻義雄は菩薩である」証拠より論（大和田始）初出：「ＳＦ論叢」４号（１９８０）</title>
<description>　《お知らせ》　翻訳家の大和田始さまが、「ＳＦ論叢」誌の４号に発表した「初夢「荒巻義雄は菩薩である」証拠より論」（１９８０）について「２１世紀、ＳＦ評論」への再掲許可を出してくださいました。　この場を借りて大和田さまのご厚意に感謝いたします。　読者の皆さまにおかれましては、遊び心と思わぬ洞察の深みを愉しんでいただけましたら幸いです。（岡和田晃）初夢「荒巻義雄は菩薩である」証拠より論　大和田始（初出：「SF論叢」４号）札幌ストーリー　荒巻義雄は１９７０年から７３年にかけて、フル..</description>
<dc:subject>ＳＦ評論</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2014-02-20T16:13:17+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<blockquote><br />　《お知らせ》<br />　翻訳家の大和田始さまが、「ＳＦ論叢」誌の４号に発表した「初夢「荒巻義雄は菩薩である」証拠より論」（１９８０）について「２１世紀、ＳＦ評論」への再掲許可を出してくださいました。<br />　この場を借りて大和田さまのご厚意に感謝いたします。<br />　読者の皆さまにおかれましては、遊び心と思わぬ洞察の深みを愉しんでいただけましたら幸いです。（岡和田晃）</blockquote><br /><br /><strong>初夢「荒巻義雄は菩薩である」証拠より論</strong><br />　大和田始（初出：「SF論叢」４号）<br /><br /><strong>札幌ストーリー</strong>　荒巻義雄は１９７０年から７３年にかけて、フルパワーでＳＦマガジン誌上を駆けぬけた。この時期に彼の作家としての可能性の中心が発光している。初期短編をまとめた『白壁の文字は夕陽に映える』や『柔らかい時計』の中の作品は問題作ぞろいである。その中から、第二作「種子よ」が『神聖代』に発展し、第４作「ある晴れた日のウィーンは森の中にたたずむ」が『白き日旅立てば不死』となり、７２年の白亜シリーズは『時の葦舟』にまとめられた。人触れれば人を斬り、馬触れれば馬を斬るこの当時の荒巻義雄の快走ぶりは、手のつけようもない。<br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"height":"240","width":"320","url":"http://www.youtube.com/watch?feature=youtube_gdata&v=AkIgfU1R7Ow"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br /><br /><strong>恋文・義雄菩薩</strong>　荒巻論として知る限りで最もすぐれているのは早川文庫版『白き日――』の鏡明の解説だ。ここに、荒巻義雄という名の電車ならざる問題が集中的に露出している。要約しちゃう。<br />a　荒巻義雄の描く世界は白い。狂気の、別世界の白さ。<br />b　視ることと物語を語ることが同居している。<br />c　あいまいさ。何度も、視点をかえて説明がほどこされる。だがどれも決定的な説明とはならない。<br />この３点は同じ一つの問題のあらわれであるように思える。視ることと語ること、言いかえれば《書くこと》と《読むこと》のせめぎあいのドラマが作品の中に共在しており、作品とはその二つの作用の闘技場であり、本質的に作品は進行中のものとなるのだ。あいまいさと白さは、極めて荒巻的なこの運動の属性であるだろう。荒巻義雄が菩薩でありうるとするならば、それは彼がこの闘いを闘いぬくところに求められる！<br />のちほど、プレイバック？<br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E88FA9E896A9.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="菩薩.jpg" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E88FA9E896A9-thumbnail2.jpg" width="300" height="300" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/E88FA9E896A9-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br /><strong>視線上のアリア</strong>　荒巻義雄は あとがき魔であり、多くのあとがきを残している。しかもそれが普通の「作家のあとがき」とは著しく異なっている。『神聖代』では「あらかじめ意図された作家の計画に従って注意深く、いわゆる文学（既成的意味の）たることを放棄した作品である」という宣言がなされ、『神州白魔伝』では「我々は、今こそ小説を超した小説を書かねばならない。この小説を超えるとは、小説が本来の虚構性に立ちもどった姿である」と誌される。いわゆる〈物語性の復権〉テーゼでもあるだろうが、ここには旧来の小説に対する根本的な違和感も表されている。〈書くこと〉には必然的に〈読むこと〉がきもなう。〈読みかえし〉のない〈書くこと〉はありえない。論者の中には〈書くこと〉は〈読むこと〉の一分枝にすぎないと見る人もいるほどである。荒巻作品が従来の小説と決定的にずれてしまうのは、奇妙な言い方だが、〈書くこと〉よりも〈読むこと〉を重視してしまうところにあるだろう。『神州白魔伝』とは、平賀源内の冒険を〈読むこと〉について書かれた作品ではないだろうか。<br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E8A696E7B79AE4B88AE381AEE382A2E383AAE382A2.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="視線上のアリア.jpg" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E8A696E7B79AE4B88AE381AEE382A2E383AAE382A2-thumbnail2.jpg" width="320" height="320" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/E8A696E7B79AE4B88AE381AEE382A2E383AAE382A2-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br /><strong>センチメンタル・ハリケーン</strong>　非文学であるか、小説を超えているかどうかはともかく、確かに『時の葦舟』を読むとき、ぼくたちは当惑させられる。これが小説であるためには何かが欠けているのではないか、もっと深みのある世界が描かれていてもよいのではないかというような不満をもってしまう。この不満、それはたとえば「聖杯物語」などを読むときに感じられるものに近いのだろう。おそらく、たぶん『時の葦舟』は物語なのだ。<br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/LA.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="LA.jpg" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/LA-thumbnail2.jpg" width="300" height="300" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/LA-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br /><strong>ブルジョワジーに走って</strong>　本号の論文でワトソンが述べているように、小説という文芸形態は市民階級と〈相即〉的な関係にある。そこには神中心の思考はなく、人間生活が中心に語られる。俗なる人間の俗なる日常、感情、過去、記憶。そのような小説を〈虚構〉と呼ぶとすれば、テクノロジーとユートピア志向とが結婚した小説、非日常を、存在しないものを語る小説は〈仮構〉と呼ぶべきだろうか。<br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"url":"http://www.youtube.com/watch?feature=youtube_gdata&v=DYveL6Je1XU","width":"320","height":"240"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br /><br /><strong>牡牛座宮</strong>　小説にあっては個人は一人ひとり分断され、それぞれの欲望をもってうごめいているわけだが、資本主義が一段階すすみ、パルコの広告に特徴的なように、イメージによってぼくたちの脳味噌がからめとられ、差異性の戯れとしての商品が<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E9%A3%9B" target="_blank">張飛</a>している現在、個人の欲望や行為はたちまちのうちに先取され、均質化されてしまっている。荒巻義雄の作品は一見古めかしく、現代性などには乏しいとも思えるが、物語に近づくことによって、小説の属性とされる深層を失い、そのことによって現代的な性格をかちえているようだ。とはいえ、荒巻に即して考えるとすれば、むしろＳＦという虚構の上に、さらに屋上屋を架したと見るほうが正解かもしれない。この間の事情をウォルハイムは「ＳＦはＳＦの上につくられる」と喝破したのである。この定理の革命的な意義についてはプレイバックするとして――<br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"url":"http://www.youtube.com/watch?feature=youtube_gdata&v=RW0ritqBh1k","height":"240","width":"320"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br /><br /><strong>曼珠沙華</strong>　まづ和歌の本歌どりを考へてみやう。浅沼圭司の『映ろひと戯れ――定家を読む』にはヂュリア・クリステヴァの仮説が紹介されてゐる。彼女はヨオロツパの歴史を二分し、十三世紀から十四世紀にかけて、象徴的思考が記号的思考にかはつたとしてゐるらしい。日本にこれと匹敵するやうな変化を求むるとすれば、おそらく鎌倉時代がその分岐点になるだらう。そして定家の、日本古代を総括し哀惜する歌<br />　　春の夜の夢の浮橋とだえして<br />　　　　　峯に別かるる横雲の空<br />がその指標となるだろう。ほいでもって本歌どりとは、理念的な世界・象徴的な思考の世界に所属する本歌から象徴性を奪いとり、記号＝仮構に変える行為ということになる。この二つの歌の間の関係は「いわば二枚の鏡の間に現れ出たイマージュの反映の戯れ。（中略）外へでて現実の世界に接することも、その上へ超え出て理念的なものに向うこともない」<br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"width":"320","height":"240","url":"http://www.youtube.com/watch?v=nr-yZN7u7Sw&feature=youtube_gdata"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br /><br /><strong>たちまちプレイバック</strong>　なんじゃこりゃ。ＳＦ論かいな――本歌どられたＳＦは、それがもつ象徴性を奪いとられ、たとえばタイム・マシンといったような記号として伝送され、それを超えでることがない。「ＳＦはＳＦの上につくられる」とは"アイディア" 奪いあいの果てに現出した本歌どりどられの一大白痴、桃源郷、ＳＦの黄金時代の核心をついた名言と申すべきだろうか！<br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"url":"http://www.youtube.com/watch?feature=youtube_gdata&v=jWdTK3hexx4","height":"240","width":"320"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br /><br /><strong>しなやかに歌って</strong>　「小説が原泉とする《記憶》を欠いているため、荒巻義雄の作品は《表面的》なるものとならざるをえない。《背後》の深さはここではゲーム的な錯綜としてあらわれ、身体ではなく脳髄を刺激する。《白熱》するのだ。<br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"height":"240","width":"320","url":"http://www.youtube.com/watch?v=SnIgrQg2v-s&feature=youtube_gdata"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br /><br /><strong>マホガニー・モーニング</strong>　ジャスパー・ジョーンズは記号を題材にえらぶことによって、作品を《背後》への無限の溯行から決定的に《表面》へもち来たらす。タブローを星条旗そのものと同一化することによって、作品は《背後》のない純粋な《表面》になるのである。（中略）たえず《記憶》を打ち消してゆく時間論的な《現在》の永遠の自己運動の苦渋に満ちた軌跡は、ここ（プライマリー・アート＝引用者註）ではついに、完全に《記憶》を拭い去った《表面》の現前にまで到達するのである。（宮川淳『引用の織物』より）<br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"height":"240","width":"320","url":"http://www.youtube.com/watch?v=98EAYQYKPbg&feature=youtube_gdata"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br /><br /><strong>名前のない時間</strong>　『時の葦舟』は神話的な物語。そして第１話「白い環」は最も古く純潔な、おそらくは中生代以前（！）の世界である。ところでこの短編を、現代の科学の用語をつかって解釈してみよう。鏡面反射によって自己励起した粒子が相対性原理の不思議で未来へと旅し、恋という磁場に捕えられ、鏡の回廊をもつ白い環のサイクロトロンの中に封じこめられ、左右逆転の反粒子と対消滅するという物語になるだろうか。「白い環」とはその過程を記録した原始乾板である！<br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/15E6898D.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="15才.jpg" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/15E6898D-thumbnail2.jpg" width="320" height="317" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/15E6898D-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br /><strong>鏡の中のある日</strong>　「白い環」で重要なのは鏡のモチーフだろう。面的な街をうつす大鏡面。面と表面の戯れ。たとえ鏡像であったとしても、遠くのものは小さく見えるはずなのに、作品はすべてを近いものとして語っているかのようだ。"自己"を中心とする遠近構造がくずれ、すべてが等距離のものとして立ち現れている。関係の等価値性、経済の悠久性によって "真の自己"は到達しにくい境地となっているのだ。占卜が繁昌しているのはその代替作用でもあろうか。鏡が、夢が、個人の欲望・運命・ありうべき位置をあきらかにする。<br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E799BEE681B5E799BDE69BB8.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="百恵白書.jpg" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E799BEE681B5E799BDE69BB8-thumbnail2.jpg" width="300" height="300" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/E799BEE681B5E799BDE69BB8-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br /><strong>湖の決心</strong>　ソルティの街のある谷間全体を"自我"とみなしてみよう。閉ざされた自我。揺籃期の幼児の夢の自我。鏡面が谺をかえさないのは当然といえよう。住民たちに過去はなく、時間もない。ゴルドハはそこをぬけだしていく。だが外にはトカゲというあまりに弱い敵しか存在していない。空間と時間を知ったゴルドハは再び内攻する。そして「時の旅人」を知る。鏡に映らない男。高次の自我を象徴する男。導師クリストファネスは内海にうかぶ舟にゴルドハを遣る。鏡の胎道をぬけて、交合の追体験として、ゴルドハは受精時の彼自身に出会う。<br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E6B996E381AEE6B1BAE5BF83.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="湖の決心.jpg" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E6B996E381AEE6B1BAE5BF83-thumbnail2.jpg" width="260" height="260" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/E6B996E381AEE6B1BAE5BF83-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br /><strong>イミテーション・ゴールド</strong>　無茶苦茶なる "解釈"だが、『神聖代』の解説で筒井康隆が書いているように、荒巻の作品は「内宇宙へ指向する者の『聖書』」であり、作品それ自体、ないしは《背後》に「内容」や「意味」があるのではない。荒巻の作品とは「曼荼羅」や「十牛図」として、一幅の絵として、鏡として、《記憶》や《背後》を欠いた《表面》として我々の前に投げだされているにすぎないのだ。読者はおのおのの似姿をそこに見いだすほかはない。<br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"height":"240","width":"320","url":"http://www.youtube.com/watch?feature=youtube_gdata&v=xF1NsoiKskg"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br /><br /><strong>イミテーション・ホワイト・ホール</strong>　問答無用・義雄秘法　荒巻義雄が問題となるのは、ＳＦの仮構世界を築きあげ、『時の葦舟』におけるように、作品のぬしとして振るまうかにみせかけながら、結局はその世界を不分明のものとして放り出し、自らも無知なる一個の読者としてその世界を読もうとする態度であるだろう。作品をこのような文学装置＝仕掛としてしまうあり方に、荒巻が我々にもつ意義がある。彼自身は「物語」であると擬装しつつ、ぬし的なふるまいをおこたってはいないが、実際には作品を《内側》に《深さ》に読むのではなく、《外側》に《浅さ》に読んでいるのだ。その間の事情は「〈想像〉は内に向う心の動きであるが、一方〈空想〉はそれとは逆に外に向って拡散する心の働きなのである」と述べられている。荒巻義雄という一個のエゴにおいて作品を終結させようとはしていないのである。<br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E69982E381AEE891A6E8889F-5c989.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="時の葦舟.jpg" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E69982E381AEE891A6E8889F-5c989-thumbnail2.jpg" width="229" height="320" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/E69982E381AEE891A6E8889F-5c989-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br /><strong>夢先案内人</strong>　「 "世界" の意味を教えることが、はたしてよいことかどうか、少なからずためらいますが」と「時の葦舟」の登場人物は語っているけれども、その"意味" とは、おそらく、世界が他者の夢裡のものであるということだろう。とはいえこれは、「黒いものは、不意にかき消えた。（中略）"世界"の意味もかき消える……」と最後の二行が示唆するように、作品が尻をまくると同時に無意味になってしまう。「種子よ」の中にもすでに、この世界は何者かの夢、あるいは異次元から投影された映像ではないかという記述がある。この発想自体は目新しいものではないが、夢また夢という構図を装置として作中にくりこみ、「底なしの深さのなさ」を生んだのは荒巻をもって嚆矢とするのかもしれない。<br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"url":"http://www.youtube.com/watch?v=vogWbcU439k&feature=youtube_gdata","width":"320","height":"240"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br /><br /><strong>継承と断念</strong>　今やぼくたちは《記憶》と《背後》を読むことによる「文学的感動」というべきものを諦めなければならない。ぼくたちの魂は『神聖代』や『時の葦舟』を読んでうちふるえる。しかしこれは文学装置的振動と呼ぶべきなのだろう。<br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E6AE8BE89990E8A18CE782BAE5B195E8A6A7E4BC9A.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="残虐行為展覧会.jpg" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E6AE8BE89990E8A18CE782BAE5B195E8A6A7E4BC9A-thumbnail2.jpg" width="180" height="300" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/E6AE8BE89990E8A18CE782BAE5B195E8A6A7E4BC9A-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br /><strong>悲願花</strong>　妄想言語系は突然の中断をむかえる。荒巻義雄について考えなければならないことは多い。とりわけルイス・キャロルや宮沢賢治との関連で語らなければならないだろう。ただ、今ようやく長い夢から醒めたばかりの当方にその準備はない。いつの日か初夢が……<br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"width":"320","height":"240","url":"http://www.youtube.com/watch?v=ah5yWnBlUh0&feature=youtube_gdata"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br /><br /><strong>参考文献</strong><br />荒巻義雄『白壁の文字は夕陽に映える』早川書房<br />　　　　『柔らかい時計』徳間書店<br />　　　　『神聖代』徳間書店<br />　　　　『ある晴れた日のウィーンは』カイガイ出版<br />　　　　『白き日旅立てば不死』早川書房ＪＡ文庫<br />　　　　『時の葦舟』講談社文庫<br />　　　　『神州白魔伝　九来印之壺の巻』奇想天外社<br />浅沼圭司『映ろひと戯れ――定家を読む』小沢書店・叢書エパーヴ<br />宮川淳　『引用の織物』<br />平岡正明『山口百恵は菩薩である』講談社<br /><br /><strong>Web註</strong>「ブルジョワジーに走って　本号の論文でワトソンが述べているように」という記述は、掲載号に翻訳されたワトソンとプリーストの対論「ＳＦ形式と内容」を指している。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/388744374.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/388744374.html</link>
<title>三岸好太郎――知覚の開拓者――（関竜司）</title>
<description>《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日～8日に開催された夕張での第51回日本SF大会（Varicon2012）を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」（北海道に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。　それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト（http://www.varicon2012.jp/index.h..</description>
<dc:subject>北海道SF大全（プログラムブック版再掲）</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2014-02-16T02:10:58+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<blockquote>《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》<br />　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日～8日に開催された夕張での第51回日本SF大会（Varicon2012）を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」（北海道に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。<br />　それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト（<a href="http://www.varicon2012.jp/index.html" target="_blank">http://www.varicon2012.jp/index.html</a>）で連載されたものと重複しますが、単なる縮約にはとどまりません。より広い読者へ向け、SFの意義を提示する開かれた文章を目指しました。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。（岡和田晃）</blockquote><br /><ins>※プログラムブック版「北海道SF大全」再掲は、本稿でもって完結いたしました。</ins><br /><br />三岸好太郎――知覚の開拓者――<br />北海道立三岸好太郎美術館にて鑑賞可能；<br /><a href="http://www.dokyoi.pref.hokkaido.jp/hk-mikmu/" target="_blank">http://www.dokyoi.pref.hokkaido.jp/hk-mikmu/</a><br />担当：関竜司<br />　三岸好太郎（1903 － 1934）は、北海道を代表する洋画家である。三岸は「人間の感受性は常に極めて順応的」であり、「新しい社会環境から新しい美的価値は生れる」（「転換」）とし、常に新しい様式にチャレンジし続けた画家だった。三岸が手掛けた作風は、アンリ・ルソー風のプリミティブなものから、岸田劉生風の写実、ルオー風の道化師のシリーズ、さらにはシュールレアリズムやドイツのバウハウスから影響を受けたものまで多岐に渡る。この新しい美的価値をつねに開拓しようとした精神の背後には、北海道の開拓者精神が宿っている。特に札幌農学校には、開拓時代の初期からクラーク博士の弟子たちがマサチューセッツから呼ばれ、近代的な農学・植物学に根差した品種改良や洋式農具によるアメリカ流の大農法が伝えられた。こうした農学校の開拓者精神あるいは科学に対する信頼が、道民に与えた影響の大きさは、すでによく知られている。三岸が外国の絵画の方法論（様式）を、貪欲に吸収し表現していったのも、開拓者精神・科学に対する信頼を背景にしたものだろう。三岸はSFという言葉が知られる以前から、SF精神を体現していたのである。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/386095867.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/386095867.html</link>
<title>『ヤマタイカ』（横道仁志）</title>
<description>《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日～8日に開催された夕張での第51回日本SF大会（Varicon2012）を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」（北海道に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。　それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト（http://www.varicon2012.jp/index.h..</description>
<dc:subject>北海道SF大全（プログラムブック版再掲）</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2014-01-25T19:19:15+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<blockquote>《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》<br />　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日～8日に開催された夕張での第51回日本SF大会（Varicon2012）を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」（北海道に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。<br />　それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト（<a href="http://www.varicon2012.jp/index.html" target="_blank">http://www.varicon2012.jp/index.html</a>）で連載されたものと重複しますが、単なる縮約にはとどまりません。より広い読者へ向け、SFの意義を提示する開かれた文章を目指しました。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。（岡和田晃）</blockquote><br />『ヤマタイカ』<br />作者：星野之宣<br />初出：潮出版社　希望コミックス版（全6 巻）　<br />1987 － 1991<br />最新版：光文社コミック叢書“ シグナル” レジェンド オブ ヤマタイカ（全5巻）　2006-2007<br />担当：横道仁志<br /><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AB-%E7%AC%AC1%E5%B7%BB-%E6%BD%AE%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%98%9F%E9%87%8E-%E4%B9%8B%E5%AE%A3/dp/426701471X%3FSubscriptionId%3D1KP9CZZY4T8B7VYR2S02%26tag%3Dseesaaaffi-1214972-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D426701471X" target="_blank" class="seesaa-af-link"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51F8RQ4FtTL.jpg" border="0" alt="ヤマタイカ (第1巻) (潮ビジュアル文庫) [文庫] / 星野 之宣 (著); 潮出版社 (刊)" title="ヤマタイカ (第1巻) (潮ビジュアル文庫) [文庫] / 星野 之宣 (著); 潮出版社 (刊)" /><script type="text/javascript" src="http://blog.seesaa.jp/af/Amazon%3A426701471X/seen.js"></script></a><br />　沖縄の東に浮かぶ久高島で、六十年に一度執り行われるという伝説の秘祭「ヤマトゥ・祭（マテイ）」。この神事の中で、過去の卑弥呼の意識と交感した伊耶輪神子（いざわ・みわこ）は、卑弥呼の霊力を受け継ぎ、この現代日本で、縄文人の狂乱の祭りを復活させようと動き始める。<br />　沖縄を発端にするこの物語がなぜ北海道SFなのか。その理由は、本作のキーワードである「火の民族仮説」という古代史観にある。すなわち、かつて南方から火山の噴火を追いかけながら環太平洋火山帯を北上して来た原日本人・「火の民族」という存在があった。しかし彼らは、渡来系の「日の民族」によって南北に分断され、追いやられてしまう。つまり本作では、北海道と沖縄は、縄文民族を共通の祖とする姉妹のような関係にある。じっさい、作中で「火の民族仮説」の解説役をつとめる人物・熱雷草作は「阿弖流為（アテルイ）」の血を引くと語られる。北海道は、いわば、本作の裏テーマなわけである。とはいえ、『ヤマタイカ』の問題意識は、アメリカを打倒すべき支配体制の象徴とすることで、縄文系と弥生系、地方と本土の対立という狭い枠組みを超え、日本という国そのものを問い直す次元にまで拡張されていく。戦争が発生する以前の自由な神話世界を取り返そうとする身振りの中で、現代の閉鎖性を打破する。そんな気宇壮大な構想を遺憾なく絵にする星野之宣の筆力こそ、この伝奇漫画の醍醐味である。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/383267545.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/383267545.html</link>
<title>『15×24』（鼎元亨）</title>
<description>《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日～8日に開催された東京での第49回日本SF大会（tokon10）を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」（東京に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。　それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ（http://blog.tokon10.net/）および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたも..</description>
<dc:subject>東京SF大全（スーベニアブック版再掲）</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2013-12-22T00:41:52+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<blockquote>《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》<br />　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日～8日に開催された東京での第49回日本SF大会（tokon10）を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」（東京に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。<br />　それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ（<a href="http://blog.tokon10.net/" target="_blank">http://blog.tokon10.net/</a>）および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。（岡和田晃）<br /></blockquote><br />新城カズマ<br />『15×24』<br />（集英社スーパーダッシュ文庫、2009年9月～ 12月）<br />評者：鼎元亨<br /><a href="http://www.amazon.co.jp/15%C3%9724-link-one-%E3%81%9B%E3%82%81%E3%81%A6%E6%98%8E%E6%97%A5%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%80%81%E3%81%A8%E5%BD%BC%E5%A5%B3%E3%81%AF%E8%A8%80%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E6%96%87%E5%BA%AB/dp/4086305097%3FSubscriptionId%3D1KP9CZZY4T8B7VYR2S02%26tag%3Dseesaaaffi-1214972-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4086305097" target="_blank" class="seesaa-af-link"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Km6fqGE7L._SL160_.jpg" width="117" height="160" border="0" alt="15×24 link one せめて明日まで、と彼女は言った (集英社スーパーダッシュ文庫 し 5-1) [文庫] / 新城 カズマ (著); 箸井 地図 (イラスト); 集英社 (刊)" title="15×24 link one せめて明日まで、と彼女は言った (集英社スーパーダッシュ文庫 し 5-1) [文庫] / 新城 カズマ (著); 箸井 地図 (イラスト); 集英社 (刊)" /><script type="text/javascript" src="http://blog.seesaa.jp/af/Amazon%3A4086305097/seen.js"></script></a><br />　新城カズマ著『15×24』は、2009年9月から12月にかけて6冊に分冊されて集英社スーパーダッシュ文庫として集英社から発行された。商品カテゴリーとしてはライトノベルとされるが、いまどき、ライトノベルだからといって予断を持つような読者はおられまい。<br />　15人の17歳がネット心中に向かう一人をめぐって2005年12月31日早朝から翌日2006年1月1日の日の出までの24時間に渡って東京を奔走する物語である。意図せず発された自殺の予告が、阻止せんとする者、達成させんとする者をそれぞれ走らせる。その奔走が雪崩のごとく人を巻き込んで、日常の皮膜をめくり上げて、東京のアンダーグラウンドを露わにする。<br />　これは東京の胎内巡りの物語だ。死を駆動力に、彼らは路上を駆け、公園に集う。彼らは家に帰れない。都市は路上と公園という器官を持つ生体機械複合体だ。家という分泌器から絞り出された彼ら細胞は、ネットと携帯という迷走神経で語り合い、路という血管を走り、公園という臓器で化合を起こし、再び迸（ほとばし）るべき脱出口を目指す。<br />　彼らは未分化の細胞で、労働者の消費者の遊民のヤクザの家庭婦人のアイドルの犯罪者の保安官の、可能性であり未だどれでもない。一人の死を追いかけて、自らが一部である高次生物の「死と再生」を体験する。<br />　この作品は古典的な「死と再生」の神話として意識的に書かれている。<br />　15人の主人公たちの通過儀礼だけでなく、東京という都市の誕生と「死と再生」の歴史を追いかける物語でもある。<br />　「とくせん」さんの神渡りから国譲りを経て江戸として誕生し、御一新と昭和の戦争という二度の「死と再生」を経て、今一度「第二の敗戦」という死からの再生を目指して更なる拡大増殖を目指す。東京という生物の神話が24時間の冒険譚にオーヴァラップして語られる。<br />　表面的には、主人公たちが演ったのは壮大な鬼ごっこであり、迷路巡りであり、野球であり、コンゲームであり、ダンスパーティーだったわけだが、これらすべては神事、神話的儀式と私は解釈する。死神との対話だったり、都市誕生以前の古い神との交感であったり、都市自身の潜在意識まで降下して再び意識水面まで上昇する生と性の儀式だ。彼らは自身が都市の「死と再生」を体験する。そして、その神事が執り行われる場、都市という生物の器官が「公園」だ。時としてグラウンド、時としてファミレス、ジャズバー、雀荘、秘密地下集会所だが、その機能は公園だ。「公園」で主人公たちは化合して物語を駆動する。<br />　都市は原野を田圃に変え、住宅に変え、道路を走らせ、市場を立て、工場を造り、オフィスビルを築く。しかし公園はけっしてその余地ではない。「なりなりてなりあわぬところ」に見えて、それは神話的器官として、あるいは性器として分化形成されるのだ。<br />　「公園」という器官を備えて初めて、そこは都市になる。東京の大都市たる所以は、その軟らかい組織を内包する事、「内包するべき」と都市が自覚的であるところにあるのかもしれない。<br />　未分化の細胞は「公園」という器官で受精し、迸る脱出口を探して奔（はし）る。旅立ちは死でもある。この物語で死が東への船出で象徴されるのは興味深い。なぜ死が「西」でなく、日の本「東」なのか。それが戦後東京が誰の精を受けて生まれたのかを示すのだろう。<br />　ライトノベル？　いまどき、あなどるような読者はおられまい。<br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/382140953.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/382140953.html</link>
<title>『ミレニアム・マンボ』（渡邊利道）</title>
<description>《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日～8日に開催された夕張での第51回日本SF大会（Varicon2012）を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」（北海道に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。　それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト（http://www.varicon2012.jp/index.h..</description>
<dc:subject>北海道SF大全（プログラムブック版再掲）</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2013-12-07T23:07:51+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<blockquote><br />《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》<br />　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日～8日に開催された夕張での第51回日本SF大会（Varicon2012）を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」（北海道に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。<br />　それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト（<a href="http://www.varicon2012.jp/index.html" target="_blank">http://www.varicon2012.jp/index.html</a>）で連載されたものと重複しますが、単なる縮約にはとどまりません。より広い読者へ向け、SFの意義を提示する開かれた文章を目指しました。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。（岡和田晃）</blockquote><br />『ミレニアム・マンボ』<br />監督：侯孝賢（台湾・フランス合作）<br />初出：ハピネット･ピクチャーズ、ビターズ･エ<br />ンド　2001　※日本公開時<br />最新版：ハピネット･ピクチャーズ　2003　※<br />DVD 版<br />担当：渡邊利道<br /><a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/g00qo033.2sm2k69d.g00qo033.2sm2l6cf/?pc=http%3A%2F%2Fitem.rakuten.co.jp%2Fsurprise-web%2Faznpbibf-3757%2F&amp;m=http%3A%2F%2Fm.rakuten.co.jp%2Fsurprise-web%2Fi%2F10676457%2F" target="_blank" class="seesaa-af-link"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3A%2F%2Fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2F%400_mall%2Fsurprise-web%2Fcabinet%2Fimgr0014c%2Fbibf-3757.jpg&amp;m=http%3A%2F%2Fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2F%400_mall%2Fsurprise-web%2Fcabinet%2Fimgr0014c%2Fbibf-3757.jpg" border="0" alt="★【送料無料】 DVD/洋画/ミレニアム・マンボ スペシャル・エディション/BIBF-3757" title="ミレニアム・マンボ スペシャル・エディション洋画(スー・チー、ガオ・ジエ、竹内淳、竹内康、ホウ・シャオシエン、リン・チャン)発売日：2003年11月27日品　 種：DVD定　 価：5040円 (税込)品　 番：BIBF-3757【smtb-TK】：【YDKG-kj】■こちらの商品はお取り寄せ商品です■商品の入荷見込みの確認にお時間がかかります。（お取り寄せに1〜4週間程度お時間がかかる場合がございます。）メーカーの在庫状況によっては、お取り寄せが出来ない場合がございます。予めご了承の上ご注文を願います。お取り寄せ商品となります為、通常の商品とは別に単体でご注文をお願い致します。" /><script type="text/javascript" src="http://blog.seesaa.jp/af/Rakuten%3Asurprise-web%3A10676457/seen.js"></script></a><br />　台湾の巨匠侯孝賢が2001 年に発表した長篇劇映画。それまでの台湾の過去を描く作風から「現在を描く」と転回を宣言、シナリオを用意せず即興演出と偶然もふくめ画面に映った素材を繊細に組み合わせた独特のスタイルで、世間によくある三角関係の物語を、2011 年の女性の視点から「十年前のあの頃」と回想する、不思議な《近未来》を描いた作品である。<br />　物語は台湾と日本を舞台として展開するのだが、台湾の大都会台北や、日本の新宿が荒涼たる風景のなかでリアルに描かれるのに対し、ヒロインがほんの思いつきで訪れる北海道の夕張の、まるで夢の中のような美しさはまさしく言語を絶するものがある。<br />　侯孝賢は、映画祭で訪れた夕張についての印象を「雪がいっぱいで、まるで欧州みたいだと思いました」と語っている。日本植民地時代の台湾を描いたこともあり、また成瀬や小津への敬愛を隠さない彼にとって「日本」のイメージから北海道はまた少し逸脱する夢の世界なのだろう。紫煙を吐いて歩く本作のヒロインの姿には『突然炎の如く』に登場する「機関車」の少女が透けて見え、北海道が欧州と繋がり、夢のような場所が映画の中にひろがる。この映画が製作公開された年には、まだ夕張は財政破綻するずっと前だったわけだが、すべてを失ったヒロインの旅立ちを感じさせる、無人の商店街のアーケードで夜明けとともに大量の鳥が飛ぶラストシーンには、夕張という町に対する静謐な再生への祈りが込められているかのようだ。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/381121197.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/381121197.html</link>
<title>『帝都物語』（岡和田晃）</title>
<description>《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日～8日に開催された東京での第49回日本SF大会（tokon10）を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」（東京に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。　それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ（http://blog.tokon10.net/）および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたも..</description>
<dc:subject>東京SF大全（スーベニアブック版再掲）</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2013-11-25T15:37:10+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<blockquote>《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》<br />　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日～8日に開催された東京での第49回日本SF大会（tokon10）を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」（東京に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。<br />　それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ（<a href="http://blog.tokon10.net/" target="_blank">http://blog.tokon10.net/</a>）および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。（岡和田晃）</blockquote><br />荒俣宏<br />『帝都物語』<br />（角川書店、1985年～、現在は新装版が角川文庫（全六巻、1995）にて入手可能、第8回日本SF大賞受賞作）<br />評者：岡和田晃<br /><a　href="http://www.amazon.co.jp/%E5%B8%9D%E9%83%BD%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%80%88%E7%AC%AC%E5%A3%B1%E7%95%AA%E3%80%89-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%8D%92%E4%BF%A3-%E5%AE%8F/dp/4041690242%3FSubscriptionId%3D1KP9CZZY4T8B7VYR2S02%26tag%3Dseesaaaffi-1214972-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4041690242" target="_blank" class="seesaa-af-link"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51baqvS3lgL.jpg" border="0" alt="帝都物語〈第壱番〉 (角川文庫) [文庫] / 荒俣 宏 (著); 角川書店 (刊)" title="帝都物語〈第壱番〉 (角川文庫) [文庫] / 荒俣 宏 (著); 角川書店 (刊)" /><script type="text/javascript" src="http://blog.seesaa.jp/af/Amazon%3A4041690242/seen.js"></script></a>　2010年、記念すべき「東京」でのSF大会を迎えるにあたり、はたしてこの奇書『帝都物語』は、いかにして読み直し（リ・リーディング）をなされるべきだろうか。<br />　帝都の霊的改造計画、関東大震災、二・二六事件といった近代の各種動乱を具（つぶさ）に描き出し、やがては2004年の終結に至るこの壮大なサーガは、優れた物語が皆そうであるように、しばし破綻の徴候を見せつつ、時にマニエリスム絵画のように妖しい煌めきを放ちながら、500万を越える読者を引きつけてきた。完結後もなお、サーガは江戸（『帝都幻談』、明治維新（『新・帝都物語』）と語り直され、その勢いは衰えを見せない。<br />　しかしながら、日本の近代化のダイナミズムを、近代の立役者それぞれに仮託し、一種の英雄（ヒーロー）に見立てて進む『帝都物語』は、往々にして、フォーミュラ・フィクションと見なされてきた。すなわち、尽きることなき魅力を有した蛮人の冒険を躍動的な文体で描いた『征服王コナン』（ロバート・E・ハワード）や、RPGの代表作『ダンジョンズ＆ドラゴンズ』の世界を舞台にした『ホワイトプルームマウンテン』（ポール・キッド）の翻訳に代表されるヒロイック・ファンタジー紹介の第一人者によってあつらえられた、定型としての物語の集積だと見なされてきたのだ。<br />　あるいは、知に伴う「矛盾」への対峙を主軸とした『アントライオン』、宗教図像学と生命科学の謎に歴史性を絡ませ解析する『レックス・ムンディ』といった小説群の文脈をふまえ、隠秘学や博物学の大家ならではの、絢爛豪華なバロック性や蠱惑的な衒学性は、『帝都物語』の特徴として、しばしば語り草となってきた。<br />　だが、ここで、ウィリアム・ギブスンとブルース・スターリングの共作である『ディファレンス・エンジン』を置いてみよう。「サイバーパンク」の旗手と書記長は、活動に意味性を付与する初期の仕事を終えた後、サイバースペースや現代政治の状況から一転し、蒸気オルガンや差分機関からなるもう一つの近代史へ遡行した。サイバースペースの彼方を知るためには、いまいちど過去へ向き合わねばならない。カール・マルクスがアメリカでコミューンを立ち上げた未来、福沢諭吉が蒸気エンジンを輸入しようとした未来を夢想せずして、テクノロジカル・ランドスケープの明日を描くことはできない、というわけだ。荒俣とサイバーパンクは、意外な取り合わせに見えるかもしれないが、『帝都物語』の歴史観には、驚くほど『ディファレンス・エンジン』に近い部分がある。<br />　『帝都物語』を開いて奇門遁甲（きもんとんこう）や神字（かむな）を見るとき、私たちはそこに、知らず、言語学からエントロピーまでを射程に入れた『理科系の文学誌』の著者の残響を聞き取ることができる。<br />　とすれば、『帝都物語』が描きださなかった、もう一つの「帝都」がぼんやりと見えてくるとは思えまいか。『帝都物語』に記された“以降”の時代を生きる私たちは、思わぬところで『帝都物語』に流れていた固有の血潮、いや、遺伝子を（再）「発見」することができるのではないか。荒俣はしきりに『帝都物語』と阪神・淡路大震災の奇妙な照応へ言及したが、それはあくまで一例にすぎない。『帝都物語』の作者が、『妖精族のむすめ』（ロード・ダンセイニ）を翻訳し、工業化の波に覆われゆく近代の最中の、ほのかな幻想を提示する繊細さがあったことを忘れてはならないだろう。<br /><blockquote>　その公告屋は、遠い丘の上に立つ大聖堂の高楼を見つけたとき、その風景をつくづく眺めて泣いた。「ああ」と彼はいった。「これがもしも『とってもおいしくて栄養満点、　あなたのスープにもぜひお試しください。ご婦人も大歓びなさるビーフオの牛肉』の宣伝に使えたらな……」ロード・ダンセイニ「五十一話集」（『妖精族のむすめ』所収、荒俣宏訳）<br /></blockquote><br />　若き日の荒俣宏は「苦悶と愉悦の幻想軌跡」なるダンセイニ論において、このアイルランドの貴族作家の探究（クエスト）ロマンスを〈時との死闘〉と呼んでいるが、これほど『帝都物語』の全体を貫く主題として似つかわしいものはない。荒俣がダンセイニの読み直（リ・リーディング）を試みたように、〈時との死闘〉がもたらしうるものが、<strong>何であるのか</strong>を私たちが把捉しえた時、ヒロイック・ファンタジーは、RPGは、隠秘学は、博物学は、そして文学（SF）は、新たな「場所」で再起動する。『幻想と怪奇の時代』（紀田順一郎）の再来だ。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/378445464.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/378445464.html</link>
<title>映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作が切り捨てたもの――『指輪物語』における“昏さ”の意義について（岡和田晃）&lt;br /&gt;</title>
<description>※本稿は、岡和田晃『「世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷　SF・現代文学・ゲーム論集』（アトリエサード／書苑新社）に収録されました。</description>
<dc:subject>ＳＦ評論</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2013-10-24T21:39:23+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
※本稿は、岡和田晃『「世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷　SF・現代文学・ゲーム論集』（アトリエサード／書苑新社）に収録されました。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/374020151.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/374020151.html</link>
<title>３０年前の「ユリーカ！」―－再び『百億の昼と千億の夜』について（宮野由梨香）</title>
<description>　第３回日本ＳＦ評論賞を受賞させていただいた拙稿「阿修羅王は、なぜ少女かーー光瀬龍『百億の昼と千億の夜』の構造」（〈ＳＦマガジン〉２００８年５月号掲載）について、少し書いておきたいと思う。　発表後、「推理小説のよう」という評がいくつかあった。さもありなんと思った。　謎を解きたくて、私はあの評論を書いた。だから、応募時のタイトルは「光瀬龍『百億の昼と千億の夜』小論―― 旧ハヤカワ文庫版「あとがきにかえて」の謎」だった。　「あとがきにかえて」という文章が私に謎をつきつけてきたのは..</description>
<dc:subject>ＳＦ評論</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2013-09-05T21:50:02+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　第３回日本ＳＦ評論賞を受賞させていただいた拙稿「阿修羅王は、なぜ少女かーー光瀬龍『百億の昼と千億の夜』の構造」（〈ＳＦマガジン〉２００８年５月号掲載）について、少し書いておきたいと思う。<br />　発表後、「推理小説のよう」という評がいくつかあった。さもありなんと思った。<br />　謎を解きたくて、私はあの評論を書いた。だから、応募時のタイトルは「光瀬龍『百億の昼と千億の夜』小論―― 旧ハヤカワ文庫版「あとがきにかえて」の謎」だった。<br />　「あとがきにかえて」という文章が私に謎をつきつけてきたのは、３０年以上も昔のことだ。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　○<br /><br />　１９７９年、私は大学に入学したばかりだった。大学の図書館は高校とは比べものにならないほど大きく、専門書が充実していた。図書館は古い大きな石造りの建物だった。裏は林になっていた。その時、そこからカッコウの声が聞こえていたのを覚えている。<br />　目の前には『仏教大辞彙』（冨山房）があり、「阿修羅」の項目がひろげられていた。だが、私はそれを見てはいなかった。私が見ていたのは、自分の頭の中にある光瀬龍の次の文章だった。<br /><br /><blockquote>　実はこの阿修羅王は経典によれば、乾脱婆王の美しい一人娘をかい間見て心を奪われ、ぜひお嫁さんに、と申し込むのですが、異教の徒である阿修羅王の願いは容れられるはずもなく、阿修羅王は泣く泣く引込むわけですが、その娘のことがどうしてもあきらめられず、ついにかれは精兵をひきいて乾脱婆王のもとに攻め込むのです。乾脱婆王は仏界第一の王たる天輪王に助けを求め、天輪王は帝釈天に阿修羅王の討伐を命じ、ここに未曾有の激戦がくりひろげられます。阿修羅王のひきいるのは魔力を備えた比類ない精強な軍勢ですが、帝釈天もまた天兵をひきいて決して負けることがないのです。決して勝つことができないものを相手にして阿修羅王は戦いつづけなければならないのです。決して勝つことができない相手、つまり絶対者を相手どって阿修羅王は永遠に戦いつづけなければならなくなったのです。決して得られるはずのない一人の美しい娘を得んがためにです。<br />　　（「あとがきにかえて」（ハヤカワ文庫旧版『百億の昼と千億の夜』所収　３９７ページ）</blockquote><br />　<br />　この文章を初めて読んだのは、高校１年生の時だった。もちろん、実際にこういう話が経典にあるのだと信じた。そして、原典をいつか読みたいものだと思っていた。<br />　だから、「大学の図書館になら、その原典があるかもしれない」と思って、土曜日の午後、図書館に籠って、ひたすら調べ、捜した。見つからなかった。捜せども捜せども、見つかるのは「逆の話」だった。どの本でも、阿修羅王と帝釈天の戦いの由来は、阿修羅王の娘を帝釈天が暴力で奪ったことにあるとされていた。<br />　私は困惑した。いったいこれはどういうことなのか？<br />　改めて「あとがきにかえて」という文章全体の構成を思い出してみた。前半に舞台劇のカーテンコールに対する批判が書かれていた。「演じ終ってからふたたび舞台に顔をさらす役者」は劇の感興を削ぐという指摘だった。<br />　あっと、気がついた。<br />「そうか。これは創作なんだ。光瀬龍の『作品』なんだ。それを示すために、前半に「あとがきで素顔をさらすことに対する批判」を書いて、この「あとがきにかえて」において、自分は「光瀬龍」であり続けると宣言しているんだ！」<br />　光瀬龍は、本来の設定とは「逆」の話を創作し、それを創作であることを見抜ける者にだけ見抜けるように文章を構成した。<br />　では、これはきっとテストだ。というか、むしろヒントだ。ここが「第一の関門」であることを示すものだ。この文章にはさらに「見抜いて欲しい」ことがあるに違いない。だからこそ、こんな仕掛けがしてあるのだ。でなかったら、こんな面倒なことをする意味がないではないか。<br />　では、第二、第三の関門も越えてみせよう！<br />　私は考えた。話を逆にするというのは、要するに「現実は逆」ということではないか。<br />『ロン先生の虫眼鏡』の記述によると、どうやら光瀬龍には妻子があるらしい。既に結婚している男にとって、この話が実存的に正しいとすれば、そして「逆が現実」ならば、彼は結婚を阻止されたのではなく強要されたということになる。結婚自体が敗北の決定だった。だから「絶対に勝てない」のだ。勝負は既についているからである。<br />　何らかの事情で彼は妻の身内に結婚を強要されて、それに従わざるを得なかったのではないか？　では、妻の身内がそういう措置に出る状況とは何か？　妊娠である。そう考えるのがごく自然だ。しかし、不自然なことがある。「乾脱婆王の美しい一人娘」という設定である。「乾脱婆王」ー「婆」という文字が気になる。これは娘の母親を暗示しているのではないだろうか。だとするなら、「乾脱婆王は仏界第一の王たる天輪王に助けを求め」の天輪王とは、「娘の父」であろう。ではどうして「天輪王の一人娘」と書かないのか？　それは「乾脱婆王の一人娘」は、「天輪王の一人娘」ではないからだ。天輪王には別に妻子がある。そして、娘とは一緒に住んではいない。<br />　次の段階の「天輪王は帝釈天に阿修羅王の討伐を命じーー中略ーー決して勝つことができないものを相手にして阿修羅王は戦いつづけなければならないのです」の帝釈天とは何か？　タイシャクという音から連想するのは「貸借」である。彼には経済的に追い詰められた身内がいたのではないか？　その身内の借金を肩代わりすることを結婚の条件として示されたのではないか？　あるいは彼自身が何らかの理由で経済的に困窮していたのかもしれない。<br />　光瀬龍は１９２８（昭和３）年の生まれである。そのちょっと上の世代の男は多く戦死した。「男ひとりに女はトラック一杯」と言われた時代ほどではないにしても、光瀬龍が結婚した頃は、まだまだ、母親が父親と正式に結婚していない娘の結婚は難しかっただろう。しかも、娘だけではなく母親の面倒も見てくれる保証のある相手でなければ彼女は結婚できないのである。<br />　父親としては娘が不憫でならないだろう。経済力のある父親だったら、それで何とかしようとするだろう。そして、娘にはそういった自分の暗躍については一切知らせないだろう。<br />「ううむ。だから、阿修羅王はヘロデ王の赤子殺しを手を打って笑うのだね。そして『征東都督府』はかもめちゃんの妊娠で終わり、元さんは何も知らないままに自分の子としてその子を育てることが暗示されるんだ！ あの作品を読んだ時、何だか治りきっていない傷口の瘡蓋をはがして血を流している感がしたのは、そのせいか！」<br />　このようなことを考えていた時のことだった。いきなり、今までに読んだすべての光瀬作品がピースとなって一枚の絵を構成した。「ユリーカ（我、発見せり）！」と叫びたいほどに感動して、私はそれを眺めた。<br />　光瀬龍は「妻には言えないこと」あるいは「誰にも言えないこと」をかかえている。それ故に「小説を書く」しかないのだ。そうやって「外に出す」ことでしか、彼は自分を保てない。しかし、だからこそ彼の作品は「誰にも言えないこと」をかかえてしまった者の魂を救う！<br />　どうやって救うか？　「美しい少女」の姿を示すことによってだ。<br />　「誰にも言えないこと」を抱えてしまった者が、それでも、この世に見切りをつけない理由は、この世に「美しい少女」がいるからだ。いや、逆だ。自分自身に、この世に見切りをつけさせないために、この世に留まるべき理由となるような「美しい少女」を、彼は作らなくてはならなかったのだ。<br />　「あとがきにかえて」で光瀬龍は「天平の無名の一仏師はそのような阿修羅王を土をこねり、布を巻き、漆を塗ってあますところなく造り出しました。まことにすばらしいわざです」と書いた。光瀬龍は土や布や漆の代わりに言葉でそれをやりとげた。<br />　しかし、その作業には終わりがない。<br />　「あとがきにかえて」で語られた「決して得られるはずのない一人の美しい娘」とは、彼の描くヒロインだ。彼の描く阿修羅王やヒロ１８や笙子はすべて「一人の美しい娘」の似姿なのだ。<br />　「『光瀬龍とは何か』が私にはわかった」と思った。林でまたカッコウが鳴いた。<br />　<a href="http://sfhyoron.seesaa.net/article/354706423.html" target="_blank">その約一年後に、作者に遭う機会が訪れようとは</a>、もちろん夢にも思わなかった。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　○<br /><br />　評論賞に応募したのは、全くの偶然だった。<br />　私は「３０年前のユリーカ」とは異なる説を論に書いた。たぶん、こちらの方が真実であると信じたかったのだ。その一方で、「背理法」を意識しないでもなかった。あの論で述べた「娘の父」をめぐる説は「３０年前のユリーカ」に比べると整合性に乏しい。しかし、あの「経典」の物語が実存的に真実だとしたら、どちらかを採るしかない。少なくとも私には、それ以外の説明を思いつくことができない。しかも、光瀬龍は『百億の昼と千億の夜』を指して「あれは、私小説なんですよ」と言ったのだ。<br />　そのことも、受賞作に書いた。<br />　材料を並べて示せば、私の「３０年前のユリーカ」と同じ結論に行きつく読者もいるだろうと思わないでもなかった。<br />　その予想は外れた。<br />　だが、その後、〈ＳＦマガジン〉に連載された評伝を読んで驚いた。<br />　「３０年前のユリーカ」の傍証となるような事実（普段は家庭にいない父の娘（2012年4月号230頁）・結婚前の妊娠（2013年2月号248頁）・娘に知らせないままに決定された結婚（2013年5月号164頁）が示されていたからである。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　○<br /><br />　もちろん、私は「３０年前のユリーカ」の正当性を、いまさら主張したいわけではない。しょせん、高校を卒業したばかりの１８歳の小娘の妄想にすぎない。<br />　だが、その一方で、５０代の今だからこそわかることがある。<br />　それは、「結婚のいきさつ」についての自己物語が一致する夫婦など皆無であろうということだ。妻の側の自己物語でもって、作家の評伝を構築するのは無謀である。ただし、作家によっては、その乖離を読むことに深い意義のある場合もあるだろう。問題は、乖離を乖離として把握できるかにある。<br />　『百億の昼と千億の夜』をマンガ化した萩尾望都は、昨年十一月に出版された『萩尾望都 対談集 １９９０年代編　物語るあなた 絵描くわたし』のために新たに語り下ろされた対談で次のように語っている。<br />　<br /><blockquote>　　出版社の人が、「ご両親にインタビューしたい」と言って、福岡の実家に行ったんです。その時に、「娘さんが漫画家になるのにずっと反対されていたそうですが……」と言ったら、両親が声をそろえて「私たちは反対したことは一度もありません」って。姉がそばで聞いていて、びっくりして、「反対していたんじゃない？」と小さい声で言ったらしいですけど、無視されたらしいです。（「東村アキコ×萩尾望都」２２４ページ）</blockquote>　　<br />　<br />　この両親の言葉を鵜呑みにして萩尾望都の評伝を書くような類の愚を犯してはならないだろう。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　○<br /><br />　もちろん、鵜呑みにしてはいけないのは作者自身の発言だとて同じである。<br />　１９８０年に、光瀬龍は竹宮恵子との対談で、このように語った。<br />　<br /><blockquote>　少年というのはまだ不幸を経験していない人間なんですよ。過ぎ去った不幸を知らないんですよ。――中略――少年にとって一番最初に起こる不幸な出来事というのは、失恋のはずですよ。両親に死に別れたり、家が家事になったりというのとは全く異質な出来事なんですよ。つまり、初めて自分が他人に対して挫折したということでしょ。両親が死んだということは、自分の延長上にあることで、他人じゃないんですよ。少年の挫折を描くとすれば、失恋しかありえないと思うわけよ。――中略――最初に強烈な恋をするとするでしょ。そうすると、少年を通して見る少女っていうのは、おそろしく理想的なものですよ。そういう形の自分の理想像がそうではなかったというか、理想像に限りなく接近しようとして、限りなく疎外されるとかね。こういうことの中に少年たちの不幸とか悲哀というのが煮えたぎって入っているんですね。――中略――人格から、その後の生き方からガラッと変えるような傷つき方は失恋しかないですよ。――中略――人にもよるけれど、女性っていうのはあまり失恋だとか初恋に破れたということで痛手を負ってない気がするけどね。――中略――女性は、新しい恋人にあまり抵抗を感じないで変わって行けるようですね。それは神のしからしむみたいな所があって。（笑）男の目から見ると、女の持っている安易さとかずるさみたいなものがやたら目につくんですよ。だけど、それはずるさでもなくって、ひとつの生き方なんでしょうね。――中略――だけど、男の子たちには女ってずるいというような事、わかんないからね。その辺に青春前期の人たちと大人との大変な違いがあるのね。僕はこれこそが、ロマンの源じゃないかって気がしますね。<br />　（「対談 男として女として 光瀬龍ＶＳ竹宮恵子」　〈別冊マンガ少年〉『地球（テラ）へ　総集編 第一部・第二部』所収　　２９８ページ）</blockquote><br />　非常に興味深い内容ではある。だが、ここから過剰に意味を読み取ることは慎むべきであろう。<br />　むしろ、作品こそが、実はすべてを語っている。<br />　評論とは、その作品の語る声なき声を、皆に聞こえるようにするためにある。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（了）<br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/373270979.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/373270979.html</link>
<title>「初音ミク」（高槻真樹）</title>
<description>《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日～8日に開催された夕張での第51回日本SF大会（Varicon2012）を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」（北海道に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。　それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト（http://www.varicon2012.jp/index.h..</description>
<dc:subject>北海道SF大全（プログラムブック版再掲）</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2013-08-28T17:43:47+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<blockquote>《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》<br />　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日～8日に開催された夕張での第51回日本SF大会（Varicon2012）を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」（北海道に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。<br />　それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト（<a href="http://www.varicon2012.jp/index.html" target="_blank">http://www.varicon2012.jp/index.html</a>）で連載されたものと重複しますが、単なる縮約にはとどまりません。より広い読者へ向け、SFの意義を提示する開かれた文章を目指しました。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。（岡和田晃）<br /></blockquote><br />【ヴォーカロイド】<br />「初音ミク」<br />作者：クリプトン・フューチャー・メディア<br />初出：2007 年～<br />最新版：随時更新中<br />担当：高槻真樹<br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"height":"240","width":"320","url":"http://www.nicovideo.jp/watch/sm12035301?external_video_config=width%3D320%26height%3D240"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"width":"320","height":"240","url":"http://www.nicovideo.jp/watch/sm5296027?external_video_config=width%3D320%26height%3D240"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"url":"http://www.nicovideo.jp/watch/sm7126454?external_video_config=width%3D320%26height%3D240","height":"240","width":"320"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br /><script type="text/javascript">extVideoConfig = {"url":"http://www.nicovideo.jp/watch/sm4326468?external_video_config=width%3D320%26height%3D240","width":"320","height":"240"};</script><script type="text/javascript" src="https://blog.seesaa.jp/contents/js/external_video.js"></script><br />　今年（編注：2012年）2月7日、「さっぽろ雪まつり」の会場で初音ミクの雪像が倒壊し、女性一人が負傷、しかし直後に再建されたというニュースは大きく報じられた。実はミクを販売しているクリプトン・フューチャー・メディア株式会社は札幌に本社を置き、ミクは北海道を代表する存在として期待を集めつつある。<br />　SFの世界では何度もバーチャルアイドルを主人公にした作品が描かれている。だが実際に市場に投入されたバーチャルアイドルは多くが忘れ去られており、フィクションが予想したような巨大資本による上からの押し付けでは定着しないことがわかってきた。<br />　初音ミクの存在が興味深いのは、ほぼ草の根に近い形でネットから立ち上がってきたことにあるだろう。製作元のクリプトン・フューチャー・メディア株式会社は、ソフトウェアとしての「初音ミク」にほとんど設定を付け加えなかった。だがそのことが多くのユーザーの想像力を刺激し、クリプトンの想像を上回る形で次々とユニークな設定が付け加えられていった。<br />　「道産子ミクさん」というのもそうした派生設定のひとつで、クリプトンが北海道に本社を持つことから連想して、北海道を称揚するキャンペーンガールとしてミクが使われた。ソーラン節を歌わせたり、なぜか釧路湖陵高校の校歌を歌わせたり。常にその活用方法は予想の斜め上である。そしてまだ、世界は拡がり続けている。いま、この瞬間も。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/371665770.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/371665770.html</link>
<title>『岬一郎の抵抗』（石和義之）</title>
<description>《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日～8日に開催された東京での第49回日本SF大会（tokon10）を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」（東京に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。　それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ（http://blog.tokon10.net/）および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたも..</description>
<dc:subject>東京SF大全（スーベニアブック版再掲）</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2013-08-10T21:03:10+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<blockquote><br />《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》<br />　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日～8日に開催された東京での第49回日本SF大会（tokon10）を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」（東京に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。<br />　それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ（<a href="http://blog.tokon10.net/" target="_blank">http://blog.tokon10.net/</a>）および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。（岡和田晃）</blockquote><br />半村良<br />『岬一郎の抵抗』<br />（毎日新聞社、1988年、のちに集英社文庫、講談社文庫、第9回日本SF大賞受賞作）<br />評者：石和義之<br /><a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%B2%AC%E4%B8%80%E9%83%8E%E3%81%AE%E6%8A%B5%E6%8A%97%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E5%8D%8A%E6%9D%91-%E8%89%AF/dp/4620103535%3FSubscriptionId%3D1KP9CZZY4T8B7VYR2S02%26tag%3Dseesaaaffi-1214972-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4620103535" target="_blank" class="seesaa-af-link"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/411ryzU3FwL.jpg" border="0" alt="岬一郎の抵抗〈上〉 [単行本] / 半村 良 (著); 毎日新聞社 (刊)" title="岬一郎の抵抗〈上〉 [単行本] / 半村 良 (著); 毎日新聞社 (刊)" /><script type="text/javascript" src="http://blog.seesaa.jp/af/Amazon%3A4620103535/seen.js"></script></a><br />　テクノロジーというものが、世界をおのが意のままに動かしたいという欲望を、その根本の動機に内包しているとするなら、SF小説もまた、テクノロジーと同様、世界をおのが夢の色で染め上げたいという、甘美かつ危険な誘惑に絶えず身を曝している、と言えよう。20世紀のスターリニズムは、党の夢を世界において実現しようと、果敢、かつ、過酷な意志で挑戦した。その意志がもたらした悪夢のような状況は、ジョージ・オーウェルに『1984年』のような作品を書かせた。ディストピアSFは、今もなお、SFおよびSF以外の作家が好んで取り上げるジャンルである。それは、SFが内包する善意に根差した暴力の危険性への、貴重な批評である。<br />　権力を握った者は、どこかで必ず冷静になる時間を確保し、反権力の契機を擁護せねばならぬ、と第71 ～ 73代内閣総理大臣を務めた中曽根康弘は、人知れず密かに自戒していたという。これは、為政者の最低限の倫理である。だが、それにもまして中曽根という人物が興味深いのは、治者と被治者のリズムの同調といった現象をわが身に引き寄せてしまったところにある。かつて雑誌『広告批評』は、中曽根の自信に満ちた笑顔と長嶋茂雄と加山雄三の顔写真を並べて、三者の酷似ぶりを鋭く指摘し、中曽根康弘が時代の顔を担っている、と断言したことがあった（この指摘は『広告批評』最大のヒットである）。確かに、中曽根が首相の地位に在位した1982年から1987年にかけての時期、時代は中曽根的な欲望に共鳴していた。それを証する最大のモニュメントが1986年の衆参ダブル選挙における自民党の圧勝であろう。<br />　「ロン」ことロナルド・レーガンに身をすり寄せるヤス（＝中曽根康弘）の姿に呼応するかのように、「東京」が国際都市として世界の舞台に浮上してきたこの時代、図らずも、中曽根は、SF作家の相貌を身に纏い、変貌しつつあった東京を中曽根カラーに染め上げたのだった。日本電電公社や国鉄の民営化に見られるが如く、市場原理を革命的道具に利用することで、彼は大衆の物質的欲望を操作することに成功し、古臭い理念と鈍臭くも戯れる社会党を壊滅に追い込んだ（都市の消費者の感性に追いつこうと慌てる社会党に、「社会党は愚鈍に徹しろ。中曽根（東京）の真似はするな」と、浅田彰が警告を発したのもこの頃である）。<br />　「正史」を王道SF作家として自信たっぷりに描いていた中曽根に、真っ向から対立したのが、「偽史」を妄想するジャンル「伝奇小説」の担い手半村良であった。彼の選んだ伝奇小説は、「正史」からのディタッチメントを試みようとする。中曽根総理の時代に書かれた半村の『岬一郎の抵抗』は、中曽根色に染まりつつあった「新東京」への抵抗を試みる作品である。プラザ合意後の中曽根の経済政策と連動しながら、東京の風景はこの頃、大きく変容した。東京のみならず、日本全体がバブルの空気に包まれ、東京とは異質の原理を貫く他者が消滅し、すべてが東京化しようとする状況の中で、半村は、ぶっきらぼうにバブル日本（SF化した東京）の他者を指し示す。それは「福井県」だ、と。つかこうへいが屈折を強いられながら、「熱海」への愛を語った（『熱海殺人事件』）のとは違って、なんの韜晦も弄することなく、80年代において福井を擁護したこと<br />は、今振り返っても、やはり剛毅だと言える。それは現実を見つめる半村の剛毅さでもある。こうした剛毅さをSFは、いつでも必要としている。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/370624459.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/370624459.html</link>
<title>『吉田一穂詩集』（石和義之）</title>
<description>《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日～8日に開催された夕張での第51回日本SF大会（Varicon2012）を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」（北海道に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。　それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト（http://www.varicon2012.jp/index.h..</description>
<dc:subject>北海道SF大全（プログラムブック版再掲）</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2013-07-30T06:57:56+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<blockquote>《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》<br />　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日～8日に開催された夕張での第51回日本SF大会（Varicon2012）を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」（北海道に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。<br />　それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト（<a href="http://www.varicon2012.jp/index.html" target="_blank">http://www.varicon2012.jp/index.html</a>）で連載されたものと重複しますが、単なる縮約にはとどまりません。より広い読者へ向け、SFの意義を提示する開かれた文章を目指しました。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。（岡和田晃）</blockquote><br />『吉田一穂詩集』<br />作者：吉田一穂<br />初出：岩波文庫　2004　※加藤郁乎編<br />最新版：（初出に同じ）<br />担当：石和義之<br /><a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%90%89%E7%94%B0%E4%B8%80%E7%A9%82%E8%A9%A9%E9%9B%86-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%90%89%E7%94%B0-%E4%B8%80%E7%A9%82/dp/4003117212%3FSubscriptionId%3D1KP9CZZY4T8B7VYR2S02%26tag%3Dseesaaaffi-1214972-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4003117212" target="_blank" class="seesaa-af-link"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51FVFDJDAGL._SL160_.jpg" width="112" height="160" border="0" alt="吉田一穂詩集 (岩波文庫) [文庫] / 吉田 一穂 (著); 加藤 郁乎 (編集); 岩波書店 (刊)" title="吉田一穂詩集 (岩波文庫) [文庫] / 吉田 一穂 (著); 加藤 郁乎 (編集); 岩波書店 (刊)" /><script type="text/javascript" src="http://blog.seesaa.jp/af/Amazon%3A4003117212/seen.js"></script></a><br />　21 世紀の平成日本において、吉田一穂の詩を読んでいると、何か途方もない時間錯誤の世界に足を踏み入れたようで、その方向性の喪失感覚は、なかなか愉快なものだ。「虚落の底に、渦まく衝隙の泡の誕生」（「海鳥」）のような表現スタイルは、端から空気を読もうとしない愚鈍の確信に由来する。かつてある批評家は、愚鈍は凡庸の反意語だと定義したが、凡庸とは空気を敏く読めてしまう貧しい賢さのことだ。「芸術」を確信する吉田の言葉は、今という時代と行き違うことによって、今の時代の性格を逆照射してもいる。「信を失すれば人間の立像は崩れてしまふ」（「あらのゝゆめ」）と吉田は語る。けれども人間の立像が崩れてしまっていることが常態化しているのが現代というものだろう。人はもはや「信」を希もうとはせず、空気だけを察知しようとする。<br />　超越性への感覚が顧みられなくなったどころか、そのような実存の問題にこだわったとたん「負け組」に転落してしまうような世界に私たちは住んでいる。既存の体系の外で目覚めたらアウトなのだ。芸術の終焉が実存の終焉でもあった。汎地球的なこのような文化現象は、日本の文化シーンにおいては70 年代後半以降、はっきりと認識されるようになった。コピー、大衆状況、構造主義などのキーワードが思い浮かぶが、芸術や実存を現代において真に生かしめるには、そこから目を背けることは許されない。ポエムな世界に撤退するわけにはいかない。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/368379763.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/368379763.html</link>
<title>ブルース・スターリング「招き猫」「江戸の花」（高槻真樹）</title>
<description>《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日～8日に開催された東京での第49回日本SF大会（tokon10）を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」（東京に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。　それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ（http://blog.tokon10.net/）および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたも..</description>
<dc:subject>東京SF大全（スーベニアブック版再掲）</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2013-07-05T16:10:38+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<blockquote>《スーベニアブック版「東京SF大全」再掲にあたって》<br />　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2010年8月7日～8日に開催された東京での第49回日本SF大会（tokon10）を応援するために、大会参加者に限定配布された「TOKON10スーベニアブック」へ「東京大全」（東京に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。<br />　それぞれの原稿が扱った題材は、TOKON10実行委員会公式ブログ（<a href="http://blog.tokon10.net/" target="_blank">http://blog.tokon10.net/</a>）および「SFマガジン」2010年9月号で連載されたものと重複するものもありますが、ブログや雑誌記事との差別化が意識されている原稿になっています。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。（岡和田晃）</blockquote><br /><br />ブルース・スターリング<br />「招き猫」<br />（「SFマガジン」1986年10月号　小川隆訳） 「招き猫」<br />「江戸の花」<br />（「SFマガジン」1997年1月号、『タクラマカン』所収　小川隆訳）<br />評者：高槻真樹<br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E6B19FE688B8E381AEE88AB1.png" target="_blank"><img border="0" alt="江戸の花.png" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E6B19FE688B8E381AEE88AB1-thumbnail2.png" width="262" height="320" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/E6B19FE688B8E381AEE88AB1-thumbnail2.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E68B9BE3818DE78CAB.png" target="_blank"><img border="0" alt="招き猫.png" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/E68B9BE3818DE78CAB-thumbnail2.png" width="232" height="320" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/E68B9BE3818DE78CAB-thumbnail2.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　商店街でよく見かける招き猫は、われわれにはただの「商売繁盛」のアイコンである。しかし欧米の文化圏から見れば、不思議で神秘的な存在に見えるのかもしれない。<br />　ブルース・スターリングの短編「招き猫」では、招き猫が極めて重要な役割を果たす。舞台は近未来と思われる東京だが、欧米人が陥りやすいフジヤマ・ゲイシャ＋ハイテクの歪んだ日本が強調された形で描かれている。そのことに引っかかる読者も多いようだ。<br />　だが知日派のスターリングが本気でこんな日本を信じているはずがない。歪んだ日本像をあえて利用することで、風刺的・戯画的な空間を狙っているようにも思える。<br />　ドタバタなガジェットに惑わされず冷静にストーリーを追っていくと、携帯端末で他人を騙して操ったり別人になりすましたりと、現在ありふれたものになっているネット犯罪を正確に予見していることに驚かされる。忘れてはいけない。本作品が書かれたのはネットがパソコンの主役になる少し前のことなのだから。<br />　スターリングは本質的にジャーナリストであり、情報を正確に集め分析する能力には驚かされる。あまりに思考が早すぎて同時代的にはぴんとこない難点はあるかもしれないが、後の時代から検証してみると、その思索の深さに驚かされる。<br />　発表当時は、『SFマガジン』への欧米作家の書き下ろしという表面的な話題ばかりが先行した「江戸の花」も、正確な明治日本の描写に圧倒される。江戸の花、とは火事のこと。スターリングは火災をリセット行為として描く。江戸期の何度かの大火による再建も同様だが、そこに異文明の流入が同調したために、景観が一新され「東京」が生まれた。タイトルは必然であり、極めて巧妙だ。<br />　そのにわか作りの東京で二人の男が対峙する。西洋合理主義の代弁者として登場するのは近代落語の父・三遊亭円朝。他方、江戸的土俗性の側にある人間として描かれるのは血みどろの残酷絵で知られる鬼才浮世絵画家・月岡芳年。<br />　円朝は「牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」など優れた怪談の作り手だったが、妖異を信じず、常に主人公の恐怖から生じる幻影とも解釈できるような二重構造を設けた。日本流モダンホラーの始祖と言えるかもしれない。そんな円朝が残酷怪異の画家芳年の前にシルクハットの洋装で現れる。かなり調べたが、円朝が洋装であったという記録はどこにもなかった。明治初期はまだまだ和装が主流のはず。つまりスターリングは承知の上で、象徴的な演出として円朝に洋装をさせたのだろう。<br />　スターリングは文明開化を一種の「ファーストコンタクト」として描いている。そこには異文明同士の接触による逆行不可能な認識の変革がある。表面的には一方が他方を打ち負かして併呑したかのように見えても、実際は他方も姿を変え、水面下に沈潜し生き続ける。本作品に登場する電気の魔物もそうした変化のひとつである。<br />　川崎市市民ミュージアムの湯本豪一学芸員による労作『明治妖怪新聞』（柏書房）には、西洋化の波の中にあってもしたたかに生き延びていった妖怪たちの姿が記録されている。大新聞・小新聞を問わず、明治期の新聞を紐解いてみると、大量の妖怪出現を報じる記事が発見される。江戸時代には身内の噂話でしかなかった妖怪譚は、活字というメディアの力を得てむしろ勢力を拡大していたのだ。湯本は言う。「『近代』と『妖怪』は一見、相反するように見られがちだが、実は近代という時代のほうが妖怪が住み易い環境だったと考えられる」（湯本豪一「明治の新聞にみる妖怪」／『有鄰』416号／2002年7月10日）<br />　この物語の結末部で、魔物は自信たっぷりに語る。<br />「うけいれるさ！　そうしなきゃならんのだぞ！」<br />　そう、まったくそのとおりだ。私たちは今も異形の魔物と共に暮らしている。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="https://sfhyoron.seesaa.net/article/367051754.html">
<link>https://sfhyoron.seesaa.net/article/367051754.html</link>
<title>『太陽の王子　ホルスの大冒険』（宮野由梨香）</title>
<description>《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日～8日に開催された夕張での第51回日本SF大会（Varicon2012）を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」（北海道に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。　それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト（http://www.varicon2012.jp/index.h..</description>
<dc:subject>北海道SF大全（プログラムブック版再掲）</dc:subject>
<dc:creator>21世紀、SF評論</dc:creator>
<dc:date>2013-06-21T12:03:01+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<blockquote>《プログラムブック版「北海道SF大全」再掲にあたって》<br />　日本SF評論賞受賞者有志は、去る2012年7月7日～8日に開催された夕張での第51回日本SF大会（Varicon2012）を応援するために、大会参加者に限定配布された「Varicon2012プログラムブック」へ600字程度の「北海道大全」（北海道に関したSF作品のレビュー）を寄稿しました。<br />　それぞれの原稿が扱った題材は、Varicon2012の公式サイト（<a href="http://www.varicon2012.jp/index.html" target="_blank">http://www.varicon2012.jp/index.html</a>）で連載されたものと重複しますが、単なる縮約にはとどまりません。より広い読者へ向け、SFの意義を提示する開かれた文章を目指しました。このたび、その意義をご理解いただいた関係各位の許可を得て、「21世紀、SF評論」において、連載という形で再掲していきます。ご笑覧いただけましたら幸いです。（岡和田晃）</blockquote><br />『太陽の王子　ホルスの大冒険』<br />監督：高畑勲<br />初出：東映　1968<br />最新版：TOEI VIDEO　2002　※ DVD 版<br />担当：宮野由梨香<br /><a href="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/1004432_l.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="1004432_l.jpg" src="http://sfhyoron.up.seesaa.net/image/1004432_l-thumbnail2.jpg" width="225" height="320" onclick="location.href = 'https://sfhyoron.seesaa.net/upload/detail/image/1004432_l-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　「かつてアイヌの人々が北海道の大自然の中で――真夏の太陽と厳寒の吹雪の中で――魚をつき、けものを追って山野をかけめぐった、その満ちあふれる生命力を私たちは今の日本のおとなや子どもたちに伝えたいと思うのです。」（人形劇「チキサニの太陽」のチラシより）<br />　原作の人形劇の主人公オキクルミをエジプトの太陽神ホルスに、悪魔の妹の名をアイヌ語で春楡を表すチキサニからヒルダに置き換えても、この作品が「北海道SF」であるという本質は変わらない。<br />　アイヌ風衣装や、溯上してくる鮭を人々が歓声をもって迎える場面などに着目して言うのではない。この作品には「日本近代」と「戦後」の問題の濃厚な反映がある。「ぼくはかなりヒルダにほれていましたよ」（註1）と語る原作者、深沢一夫にとって、その舞台はどうしても「北海道」でなくてはならなかった。しかし、「アイヌは使っちゃいけないっていうお達し」（註2）のため、アニメ化にあたって舞台を移した。そのこと自体が、むしろまさに「北海道SF」たる所以なのだと言えよう。82分間の中に思弁的で濃厚なドラマが詰まっていて、日本動画史におけるメルクマールとされている。<br />　音楽は間宮芳生、高畑勲の初監督（名目は演出）作品にして、宮崎駿が場面設計を担当、森康二らが原画を描き、作画監督は大塚康生、「ヒルダは私のものだ！」と叫んだ熱心なファンが和田慎二。<br />　その問題提起の深さは、今もって色褪せていない。<br /><br />※（註1）徳間書店「ロマンアルバム・エクセレント60」、P.186。<br />　（註2）前掲書、P.189。<br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
</rdf:RDF>

